in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に スシローのグループ会社の杉玉の立ち上げから社長経験もされた株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏登場。
金井、少年の話。
「瀬戸内海の小波しか知らんやつらに、ハワイの大きな波を知ってほしいんじゃ」。
波に向かって、お父様は、そうつぶやいた。
この一言はハワイで行われるヨットレースに色々なメンバーを載せて苦戦が続き、「これだけ大金をかけて、なぜ負けるレースをするのか」とお母様に詰問された時のお父様の回答。当時、お父様は西日本ヨット協会の会長だったそう。
今回、ご登場いただいた株式会社GRACIASの代表、金井智秀さんは1974年、広島で生まれる、お父様はパチンコ店などのアミューズメントパークやタクシー会社を経営。事業のかたわら、上記の通り、法政大学ヨット部でキャプテンを務め、西日本ヨット協会の会長も務められていたそうである。
もう一つ、「祖父も、父も、広島の暴力団追放の会の会長だった」と金井さん。「うちの会社のパチンコ店に銃弾を打ち込まれたこともある」というからおだやかではない。
「祖父が釜山から日本に渡ってきます。これが我が家のルーツです。祖父は広島の朝銀の理事長も務めていたそうです。父もそうですが、2人とも周囲からの人望が厚かったそうです」。
言葉の端々から、お祖父様やお父様を尊敬している金井さんの様子が読み取れる。ただし、祖父も、お父様も金井さんがそれぞれ13歳、17歳のときになくなっている。
「私は、中学から千葉県の暁星国際に入学し、寮生活を送っています」。サッカーが上手く、ブラジル留学に行ったと聞いていたから、サッカー推薦かと思っていたが、これが、金井家の教育方針だったよう。
「兄も姉も、全寮制の学校に進んでします」。お姉さんに至っては、歩いていける学校で、寮生活を送っていたそうだ。
「中学でも、もちろんサッカー部」という金井さんに、<ところで、千葉でしょ。広島弁は?>と聞くと、「そうなんです。だから、最初のあだなはヤクザでした」と爆笑する。
温厚な顔つきだが、怒らせれば怖い。方言だけではなく、威圧感があったにちがいない。
「暁星国際は、中高一貫校です。私は、サッカー部では1年からレギュラーでした」。さすが、ブラジルに留学するだけある。「最初はフォワードだったんですが、だんだん試合を支配するミッドフィルダーになっていきます」。
この話を聞いて、今の金井さんのルーツがわかった気がした。
「一方、寮生活でも室長や、寮長も務めます。生徒会でも、体育委員を6年間、体育祭の実行委員長も務めました」。
<すごいですね?>というと「サッカーはともかく、寮長になったのは、『毒をもって毒を制すためだ』って、先生らに言われてました」と笑う。
おおよそ、ここまでが金井さんが、子どもだった頃の話。
ちなみに、金井さんによると、「父が他界してからは、相続争いもあって、父の会社は事業縮小し、かなり前になくなっている」とのことである。
日本LCAへ。冒険の始まり。
金井さんの最終学歴は、武蔵大学、経済学部金融学科中退となるか、千葉県私立暁星国際高等学校卒となるか。
「高校を卒業し、2年浪人して武蔵大学に進むんですが、カプリチョーザでバイトにはまって2年生の途中で辞めてしまいます。なので学歴は高卒になってします。1996年ですから、22歳のときですね。母方の叔父が経営する株式会社コリーヌに就職して、 サンマルク高知知寄店の店長に就任します」。
金井さんからいただいたプロフィールによれば、「サンマルク全国100店舗の『顧客満足度アンケート評価』で全国一位を獲得」とある。
大学中退、高卒、いずれにしても、サンマルク店長が、金井さんの経歴の始まりとなる。
簡単にご紹介する。
1996年:株式会社コリーヌ入社
1999年:日本LCA入社
1999年:株式会社イデア・リンク設立・取締役就任
2004年:同社の代表取締役専務に就任(翌年 代表取締役社長)/株式上場(IPO)を目指し事業計画策定、企業運営に従事する。
<日本LCAに入社した理由は?>と聞いてみた。
「縁があったのはたしかですね。じつは当時、付き合っていた彼女が、勝手に色々な会社に履歴書を送ったんです。僕は学歴がないからどこも入れないと思っていた」と笑う。日本LCA以外にも送っていたそうだが、縁があって、日本LCAに入社することになったのだという。
日本LCAは、当時、東証二部上場のコンサルティング会社である。ベンチャー・リンクは関連会社で、サンマルクを通し、縁があった。叔父さんの会社、コリーヌは、顧客の1社でもあったそう。
「入社すると、高卒は私だけ。アウェイです。私以外は、早慶、関関同立が当たり前、東大生、京大生もいましたからね」。そもそも、彼女が送った一通の履歴書がはじまり。そこからして、ユニークだ。
「学歴はなかったですが、私はサンマルクで現場の実践経験を積んでいます。だから、実践力はちがいます」。
日本LCAに入社した金井さんは、フランチャイズ支援事業部に配属され、フランチャイズ本部の展開支援を行っていく。
「じつは、サンマルクで店舗の経験を積んだあと、ある会社で、物件開発の営業職も経験していたんです。だから、残すは経営だと。日本LCAに入社したのは、経営を学ぶという意図もあったんです」。
実践レベルから、経営をみることができる金井さんは評価され、入社して半年で、株式会社イデア・リンク(現イデア・プラス)設立とともに、取締役に就任する。
「朝礼で人事が発表されるんですが、私もぜんぜん知らなくて。私ともう一人が抜擢されたんですが。もう一人は若手のエースでしたから、みんなそうだよな、ってなって。でも、『もう一人のあいつはだれだ?』って(笑)」。
社長、就任。
社内でも、ノーマークだった青年が、4年後、代表権をもち、その翌年には社長に就任。IPOに向け、爆走する。
「その原動力になったのが、『銀のさら』です。5年で上場と決めていましたので、そのためにはセールスが60億円で、事業の平均利益率は11%で7億円。新店の開業費やその他の経費を引いても上場できる業績になります。父の会社の衰退をみていたからでしょうね。資金繰りはネガティブに考えるタイプなんです。だから、慎重に数字を組み立てます」。
資金繰りにはネガティブだったが、事業はポジティブに動かしていく。「銀のさら」については、金井さんより、むしろ親会社の日本LCAが展開に慎重だった。半年で24店舗を出店する計画を作成したからだ。だが、金井さんは社内の慎重論まで押し切り進めていく。
「銀のさら」をスタートさせたことで、すべてが一気にふくれあがる。
「店舗数もそうですし、社員も20人からいっきに100名です。しかも、最初はまったくうまく業績が立ち上がりません。大流血です。さすがに会長からも、『もう出店はするな』と」。
<いま振り返っていちばんつらいときは>と聞くと金井さんは、この時の話を挙げる。
「銀のさらの本部からもすぐには利益があがらないと聞いていたんですが。それでも当時、宅配すしってブルーオーシャンだったんです。だから、アクセルをふんだんですが」。
2ヵ月経っても、3ヵ月経っても業績は上向かない。途方に暮れる。判断が間違っていたのか。「でもね。4ヵ月目になって、あれ?って。はじめて黒字化するんです」。
なんで、なぜ? コンサルだけあって、偶然では片付けない。
「すると、一定の法則がみえてきたんです。具体的には、ある一定の顧客数になると、黒字化するという法則です。もちろん、お客様のセグメントなど、多少、異なるファクターはあるんですが、4ヵ月かけ、ある程度の認知を獲得できたから黒字化したと仮定してみたんです」
「だったらね」と金井さんはニヤリと笑う。
金井さんはさらに大胆な戦略を立て、果敢に打って出る。
「本部の制御を振り切って、オープンと同時に半額キャンペーンをはじめます。最初、『全品半額』ってやったもんだから大パニックになっちゃって(笑)。ただ、認知度はオープンと同時にアップして。このあと開店する店は半額は3品に絞るんですが、それでもめちゃめちゃ売れて、初月から利益がでるようになります。それ以外にも思わぬ副産物ですが、メニューを絞って沢山売れた事がスタッフのいいトレーニングになったんです」。
この金井さん流の戦略が大ヒットし、予定通り半年で24店舗も「銀のさら」をオープン。そのあとも出店を継続した。オープンすると、とたんに黒字化するから会社の利益もアップする。またFC本部ではなく、イデア・リンク単体で関西限定ながらTVCMも放映した。「放映料が5000万円。さすがに慎重な意見もありましたが、私達のシミュレーションでは、十分採算がとれると判断。電通さんといっしょにしかけます」。
子どもが100点とったり、サッカーでゴールを決めたりした、ちょっといい日に「銀のさら」、というシンプルな広告。これがまた功を奏す。
「結構順調で、私のミッションだったIPOまで、あと一歩だったんです」。
<だった?>
「そう、親会社の業績が悪くなって」と、金井さん。
「なにが苦しかったかっていうと、社員に上場すると宣言していたもんですから。みんな会社を信じて。持株会もあったし、上場に期待している人もいたんですよ。でも、できない。みんなでめちゃくちゃがんばってきたのに。親会社のせいだなんていえないでしょ。もちろん大きくなれたのも親会社のおかげだし。誰のせいにもできず自身の罪悪感が大きくなりました」。
仕事に集中できず、「会社を抜け出して近所のゲームセンターに逃げ込んだこともある」と、肩を落として笑う。
その昔、お父様が若い選手たちにハワイの大波をみせたように、金井さんも、多くのスタッフに、彼らがみたこともない世界をみせてやりたかったにちがいない。だから、肩を落とす。
スシローで、<鮨居酒屋 杉玉>を開発する。
温厚なタイプだが、怒ると怖い、という印象。そういうことはもう書いた。このとき、金井さんは、なにかに向け、怒っていたにちがいない。その一方で、悔しくて、申し訳なくて、ゲーセンに逃げ込むことしかできなかったんだろう。
話を進めよう。
このあと、金井さんは、イデア・リンクのM&Aを完了させ、代表取締役を退任。株式会社GRACIASを設立して、代表取締役に就任。経営コンサルティング業務をスタートする。
その一方で、コリーヌ、そう、あのサンマルクを運営していた、金井さんのスタート地点でもあるコリーヌにもどっている。今度は、店長ではなかった。スポンサー選定した上でプレパッケージ型の民事再生を実施する。
倒産から救ったという見方もできるが、結果としては反省の多い毎日だった。
この時、生まれた縁もあって、今度は、スシローにこわれて入社している。もう一度、時系列で追いかけてみよう。
2016年:株式会社セントリングス取締役に就任(2022年退任)
2017年、株式会社スシロークリエイティブダイニング 代表取締役に就任。
<「鮨居酒屋 杉玉」を開発されたのは、このときですね?>
「そうです。最初は、コンサルティングから入って、杉玉の事業開発をして、その後に取締役に就任させてもらいました」。
「鮨居酒屋 杉玉」は、回転寿司チェーンの「スシロー」が手がける、大衆寿司居酒屋。酒蔵などで新酒ができたことを知らせるために軒先に吊るされる、スギの葉を集めてボール状にした「杉玉(酒林)」が、ネーミングの由来。
金井さんのセンスがうかがえる。
<ただ、このあと、退任され、スシローを離れていらっしゃいますね?>
「2019年の年末ですね。もちろん、つづけていくという選択肢がありましたし、それがいちばんだった気がします。経済的にも、スケールだって、やれることも沢山るし、やはり企業規模がでかいですからね」。
<そのぶん、できることもでかい?>
「そうです。でもね。これでいいかなって。うまく言語化できないんですが、安定していることで逆に不安になるんです。自分がいなくてもできると思うし」。
約束された年収、未来、それは冒険でもなんでもなかった。
「瀬戸内海の小波じゃ、私も満足できなかったんでしょうね」と、金井さんは笑う。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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