2021年8月11日水曜日

株式会社のぶちゃんマン 代表取締役社長 滝下信夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社のぶちゃんマン 代表取締役社長 滝下信夫氏登場。


本文より~

剣道と少年。

偶然だが、インタビューした日は、のぶちゃんマンの68歳の誕生日だった。あとで、Facebookをのぞかせていただくと、バースディの写真がアップされていた。
のぶちゃんマンこと、滝下信夫氏が生まれたのは1953年4月26日。意外なことだが、少年時代は内向的で引きこもりがちな少年だったそう。
「転機の一つは、小学5年生の時に訪れます。母親に剣道の教室に連れていかれたんです」。小学5年生。剣道はけっして楽なスポーツではない。「何度も辞めようと思たんですが、じつはいまもつづけています」。
剣道ではどんなことをマスターしましたか?とうかがうと、「たくさんのことを教えてもらいましたが、身についたといえば、やはり、逆境を跳ね返す精神力ですね」という返答。
「優勝とか華々しい結果はありませんが、それでもつづけられたのは、剣道にそれだけ惹かれていたからでしょう。今思うと、ほんと辞めなくてよかったです/笑」。
「逆境」という表現が正しいかかどうかわからないが、たしかに、滝下氏の人生は波乱万丈。気合と残心がなければ、どうなっていたか、わからない。
剣道に励む少年は、頭も悪くなかった。
高校は堀川高校(現在は、京都でトップクラスの進学校)を卒業したが、この時、大学には進学しなかった。
「高校を卒業して、大阪の家具店に就職します。父親が京都で小さな家具店をやっていましたので、いうならば二代目の修業ですね」。ただ、家業をつぐつもりはなかったとも言っている。「だからね。目的がないっていうか。当時は、パチンコや競艇にどっぷりと」。
なんでも、日々のパチンコ店通いはもちろん、日本中の競艇場をめぐっていたそう。「怠惰な日々だった」と滝下氏も笑っている。
それでも仕事はつづけられたんですよね?
「それは、もちろんです/笑。案外、商売っ気もありましてね。就職した会社には3年勤め、それから実家にもどりますが、小さな店なので、仕入れから値札付け、配達までぜんぶ1人でやっていました。とはいっても、配達の合間にパチンコに寄るみたいな、ね」。
父親は職人気質だったが、私は母譲りの商売人、とのこと。むろん、針はどちらにも傾かず、ただただギャンブラーであったことも事実である。

殻を破った、スポットライト。

ギャンブラーだったし、アイデアマンでもあった。リスクと対峙することで、想像力も、決断力も育った。「なんたって、〆切まで決断しないといけないでしょ。そういう意味では、私の人生、競艇のおかげってところも、ちょっとはあるような気がするな」。
ともかく、これといった、良いことも、逆に悪いこともなく、ギャンブルと共存できるくらいの日々がつづく。
「ただ、それでも、けっこう注目はされていました。35歳の時、60坪で3億円売り上げたところ、船井総研さんから『坪効率日本一』の称号をいただきました」。
家具店には家具を展示するためのスペースがいるそうで、大型店ともなれば1000坪クラスもあるそう。「だから、うちみたいな小型店はそもそもバリエーションが効かないわけです。1990年代に入ってからは、大型店の出店攻勢はもちろん、ドル箱だった婚礼家具の習慣もなくなり、小型家具店の業績は下降します」。
そんななかで、どう活路を見出されたんですか?
「小スペースだから、上に積み上げたんです/笑」。蛍光灯も外したそうだ。「あのドン・キホーテさんも参考にさせていただきました。チラシもつくりました。『小さなキズだが、どでかい安さ』みたいなキャッチフレーズをつくったりして。だいたいトークも得意だから、口八丁っていうかね。学習机を年間1000台売ったら、みんなびっくりしちゃって、騒いでくれました/笑」。
口がうまいから?か、TVショッピングにもでている。「4回目までは、ぜんぜんダメだったんです。でも、5回目に司会者のアドバイスを聞いて、女装したら」。
女装?
「KBSのTVショッピングだったんですが、とにかく、今のままじゃダメだったことになって。もちろん、目立つのはきらいなほうだし、内向的でしょ。だから、最初は…」。
カメラの前に立つまで、アイデンティティーが揺れまくったそう。
「でも不思議なもので、スポットライトが、パッと当たった瞬間、覚醒しちゃうんですよね。なんだか、いままで私が覆っていた殻が破れて、何でもできるんちゃうかって/笑。で、いざ本番です。司会者がのせてくれて、爆笑の渦です。注文の電話が鳴りやまない。そんな事態は想像もしていなかったから、びっくりです」。
驚異的なセールスを記録する。
誰だ、あれは? 滝下氏の名も、広まったことだろう。むろん、いちばん驚いたのは、滝下氏、自身に違いない。記録的なセールスにではなく、もう一人の滝下という人に出会って、である。

のぶちゃんマン、爆誕。

「マスコミ受けを狙ったわけではないんです」と滝下氏は、のぶちゃんマンが生まれる背景を語る。「TVでは女装でしょ。店でもなにかやろうとなって、今度はピーターパンです。でも、店で動き回っているうちに衣装がボロボロになるんです。家具にひっかかって」。
はぁ、なるほど。
「それでね。専門家にお願いして、はじめてちゃんとしたコスチュームをつくってもらったんです」。
それが、もしかして。
「そうです。2000年のことです」。
ちなみに、現在ののぶちゃんマンはバイキングがモデル。世界中からお宝をさがしだすバイキングという設定だそう。
「まぁ、いたずら半分です。売上も下がってきて、もうどうにでもなれって、半分はやけくそで/笑」。ただ、いたずら半分、やけくそ半分の突き。これが会心の一撃になる。
「雑誌に取り上げてもらって。たしか題名は『着ぐるみ着せたら日本一』だったような」。これをみたマスコミが、ほっとかない。「どれくらいだったかな。関西ローカルだけじゃなく、全国ネットでも。そうそう、ワールドビジネスサテライトにも出演しました。どうでしょうか、月3~4回は、ブラウン管に登場していたと思いますね」。
「そもそもは、『のぶちゃんマン』の着ぐるみを着て、店頭販売を開始した、そこからです。それが、話題になったというわけです。おかげ様で、4年間で売上が10倍になりました」。
店頭から、全国区のヒーローへ。
「のぶちゃんマンっていう、もう一人の私が、私の窮地を救ってくれたわけで、私にとっても、ヒーローそのものです」。
ただし、着ぐるみを脱げばただの人間。のぶちゃんマンがヒーローなのに、勘違いする。
「浮かれちゃいましたね。家具店は、埼玉から熊本まで18店舗。各店舗のスタッフを『のぶちゃんマンジュニア』なんて言ったりしてね。トラックを買って引越センターもオープンしたし、総合リサイクル事業もはじめました」。
「お困りごと助け隊」という、ユニークな事業も行っている。
「いまメイン事業になっているパン事業も、この時です。とにかく、好調。のぶちゃんマンがいますからね。『2008年には、ヘラクレスに上場だ』って騒いでもいたんです」。
今思えば、ワンマン経営にもなっていた、とつぶやく。

・・・続き

株式会社のぶちゃんマン 代表取締役社長 滝下信夫氏

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