2021年8月3日火曜日

株式会社プロジェクトジャパン 代表取締役 中川泰象氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プロジェクトジャパン 代表取締役 中川泰象氏登場。


本文より~

野球と、中川氏と。

中川氏が生まれたのは1975年。出身は練馬。兄弟は、弟が1人。一家は、中川氏が小学4年生になった頃に、保谷に引っ越している。中川氏が野球をはじめたのは、その頃。
「小学、中学と野球をやって、当時強豪だった千葉の拓大紅陵に進学します。1学年40~50人くらいいました」。
中川氏も野球にはそこそこ自信があったが、上には上がいたそうだ。
「すごい選手ですか? そうですね。同級生で1人、ロッテにドラフト2位で入団したのがいます。和製大砲といわれ、チームの大黒柱だったようですが、のちにK1に転身し、そちらでもTVで騒がれていましたね」。
プロがでるくらいだから、すごい世界だったんでしょうね?
「どうでしょうか? ただ、すごいって言えば、寮生活もすごかったですね。朝4時半からトレーニングです。まだ、真っ暗なんですが、やっかいなことに、ナイター設備がありますから/笑」。
冬など、全身が凍えた。一般の生徒はまだぬくい布団のなか。
「野球部だけの寮なんです。低学年は、上級生のお付きです。洗濯でしょ。マッサージもそうです」。遣いっ走りも、しょっちゅうさせられたらしい。

名監督との出会い。

「たいへんでしたが、いまの私があるのは、あの3年があったからだと思っています。当時の、高校野球部の監督(故小枝守監督/同校を春・夏合わせ9回甲子園出場に導いた名将。第11回 BFA U-18アジア選手権大会の侍ジャパンU-18代表監督)の下で野球ができたことも私の財産です。我慢も教わりましたし、監督からは人間として何が大事かを叩き込んでいただきました」。
もともと風船のような、生活だった。
「中学の時も、野球はマジメでしたが、いまになって思うとけっこうバカなことばかりしていました。教師も、監督もバカにしていたし。高校時代がなかったら、また、小枝守監督とお会いしていなかったら、どうなっていたんでしょうね」。
小枝守監督は、「つらいこと、きついことから逃げずに、向き合っていることに価値がある。技が人を動かすのではない、人が人の心を動かすのだ」と言われていたそうだ。今も心の奥底にある、言葉だ。
「就職もじつは、監督の指示だったんです。浅草橋にあるベルトのメーカーに、就職させていただきます。もっとも、私は当時、お笑い芸人になりたかったんですけど…。監督に言われ、ノーはない。ただ、4ヵ月で辞めちゃって。大激怒されました、あいつは破門だとおっしゃっていたそうです/笑」。
ともあれ野球のおかげで道を外さず、野球のおかげで、人生を知ることができた。「逃げずに、向き合っていることに価値がある」。たしかに、そうだ。

一杯のラーメン。

「ただ、仕事では、けっこう逃げ出します。ベルトメーカーからスタートして、飲食もしますし、配送の仕事もしました」。
ターニングポイントは運ちゃんの時にやってくる。
「配送仲間でラーメンにやたらくわしい人がいて、連れて行ってもらったお店が60人の大行列だったんですね。二郎系の大人気店『ラーメン富士丸』さんです」。
「一杯のラーメンに衝撃を受けた」と中川氏。
「2時間くらい待って、食べた一杯です。それまで、ラーメンはそう好きでもなかった。でも、あの富士丸さんでいただいた一杯を境にラーメンの食べ歩きをはじめ、独学でも勉強を開始しました。そうですね。社会にでて、はじめてハマったのがラーメンです」。
しかも、趣味だけでは終わらなかった。
「そうです。このあと、あるラーメン店に就職するんですが、これも、社会にでて、はじめて『やりたい』と思った仕事でした」。
1年半、修業する。「いままでは『時給がいい』や、『休みがある』、『ちかい』とか、そういうモノサシで仕事をしてきたんですが、はじめて、私自身の思いをぶつけられた仕事に出会ったという思いでした。このラーメン店に就職したのが22歳の時で、そのあと、もっといろんな味を勉強したくて、アルバイトをいろんなお店を渡り歩きます」。
フィールドは、激戦区、池袋。我が家の小さなコンロで、試作品を何度もつくった。めざすは、中川オリジナル。独立は28歳の時。はたして、そのお味は?
(この当時の話は、ホームページにもくわしく記載されているので、参照いただきたい。URLはコチラ

大赤字からの大逆転。

とにかく、大赤字だったと中川氏。「熱い思いはあったんですが、かたちにする理念や理想がなかった」という。経営のノウハウがなかったのも事実だろう。
20坪で、予想した月商は1000万円。
「修業時代のお店が、おなじくらいの坪数で1400万円だったもんですから、まぁ、1000万円は大丈夫だろう、と。ふたを開ければ、600万円です。『20坪なら600万円でも』という人もいますが、食材にもお金をかけていましたし、スタッフも8人くらいいましたからね。損益分岐点も800万円くらいだったかな。いまなら、人件費のコントロールもできるんですが…当時は」。
どうすればいいか、わからない。ただ、今度は、逃げずに向き合った。
「社員でしょ。お客さんでしょ、それに、クレームの嵐。そんな一つひとつに向かい合いました。ただ、答えはそう簡単にでてこない。あの時の試行錯誤も、いまにつながっています」。
低迷は、1年ちかくに及んだそう。
途中で辞めようとは思わなかった?という質問には、「辞めようと思う暇もなかった」という返答。
転機は、一本の電話とともにやってきた。
「『おいしい』という定義は、味だけじゃない。感動を与えられるかどうか。看板のデザイン一つにしてもそうだし、内装も、そう。社員の教育だってその一つなんです」。

・・・続き

株式会社プロジェクトジャパン 代表取締役 中川泰象氏

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