2019年8月13日火曜日

株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社石川 代表取締役 石川敏樹氏登場
本文より~

反則的、でかさ。

すれちがった誰もが小学生とは思わなかったのではないか。小学6年生の時には、182センチの堂々たる体躯となっていた。野球ではエースで四番。球速は最速136キロだったというから驚く。高校進学前には、スカウトが鈴なりになったそうだが、当然のことだろう。
「小学生当時の住まいはUR住宅だったかな。そう、裕福でもなかったですね。兄弟は2人。私が弟です。小学1年の頃は、運動が得意だったんですが、だんだん太っちゃって。3年生のマラソン大会では、後ろから4番目。翌年もだめで。それが悔しくて、毎日、走っていたら、マラソンでは1位になるし、野球でも四番でエースになっちゃった。当時は電車も好きで、母の実家がある静岡の菊川まで各駅停車で行ったりしていました。こんなヘンな奴は、そういないですよね/笑」。
石川氏はいまも110キロとでかいが、小学6年生で180センチオーバーとは…。子どものなかに、大人がいるようなものだ。
「そう、ですね。4年生の時にはもう160センチあって、5年で170センチ、6年で182センチです。さっきも言ったように5年くらいから、体格がひきしまり、野球でもパフォーマンスをだせるようになりました。そうなると、軟式で130キロオーバーですからね、中学生レベルでは、もうだれも打てません。進学前にスカウトがきましたが、そういうのは断って、兄が通った公立高校に進学します。兄もこちらでエースだったんですね。ええ、当然、野球部です。でも、すぐに肩を壊しちゃうんです」。
絶対的なエースになるはずが、肩を壊して思い通りの投球ができなくなった。「人生のなかでも、トップクラスの挫折ですね/笑」。
それでも、1年半は野球を続けた。「だけどね。ベンチ外です。いま思えば、あの立ち位置はいい経験になったんじゃないかな」と石川氏。むろん、それは、いま思えば…、の話である。

みとれた。どこまでも高い、コック帽。


野球の代わりに始めたバイトで、大人の世界を垣間見る。17歳。新宿二丁目ではたらいた時には、間一髪の状況から逃げだしている。
銀座のスナックでもはたらいた。当時、月給が15万円。使い道がわからないから、財布にはいつも20万円くらいあった。「ファミレスくらいしか知らないから、たらふく食べても5000円くらいでしょ。そりゃ、なくならないです/笑」。
秋になると、仲間たちも野球を卒業する。「で、その時に、仲間4人で記念旅行をするんですが、その旅行で、俺たちの人生が決まるんです。え? なんでかって?」。
なんでも、いちはやく部活を卒業した石川氏はバイト生活を送りつつ、大学は無理だが、専門学校なら大丈夫だろうと進学先を調べていたそう。取り寄せたパンフレットのなかに「大阪あべの辻調理師専門学校」があり、「1日体験、交通費支給」と書いてあったらしい。
「でね。『いいじゃん、これ!』ってなるわけですよ。バカばっかりだから。何をするのか知らないけど、1日体験したら、とにかく往復料金がただなわけでしょ。料理なんて、だれ一人興味がなかったのに、『いいね、いいね』ってなって/笑」。 もちろん、石川氏も興味のない1人だ。
4人のうち3人はまだ、いがぐり頭。それでも、「通天閣」「なんば」「たこ焼き」…、なにわの夜が、頭のなかを駆け巡る。
「俺たちにしてみたらさ。体験なんてうっとうしいだけ。だりぃな、なんて思いながら、何がはじまんだろうって観てたらさ」。
一瞬だったらしい。「そう、一発でノックアウト。『すげぇ』って。心を鷲掴みにされるって、あるんですね。びっくりしちゃった/笑」。
もう、なにわの夜どころじゃなくなった。
「埼玉にもどった時には、料理は男子一生の仕事だって、4人が4人とも関西弁でまくしたてていたんです/笑」。
実際、石川氏ともう1人が「辻調理師専門学校」に入学し、残り2人も料理人のトビラを叩いている。
「オレは、コックになる」。
今度は、志高く、新幹線に乗り込んだ。和・洋・中。選択したのは、どこまでも高くつづくコック帽に憧れ、フレンチ。もっとも、いくら高い帽子でも、石川氏からすれば目の下にあったかもしれないが。
そして、1年が経つ。
・・・続き
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