2019年8月29日木曜日

スタースリー株式会社 代表取締役 坂口文彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”スタースリー株式会社 代表取締役 坂口文彦氏登場
本文より~

中学から全寮制の学校に進む。

4代目といえば、4代目。ホテルも、飲食店もあったが、いまはすべて手放した、と笑う。「小さい頃から、仕事を手伝っていた」と坂口氏。ホテルと我が家はつながっていて、我が家の玄関は、ホテルの厨房につづいていた。
「小学生までは、もちろん親元で育ちますが、中学からは寮生活です。広島市内にある中・高一貫の男子校に進みます。小学生の時に、近所の子が受験するというというから、じゃオレも、と。ホームシックはなかったですが、門限や上下関係、お小遣いにも制限があって。ええ、部屋は4人部屋です」。
中学の3年間は、寮生活。高校からは独り暮らし。早くから親離れしている。「最初は、私より、親のほうがさみしがっていたようですね」。
中学は、生徒数も少なく濃厚な付き合いだったが、高校になると生徒数はとたんに膨らんだ。進学校だったし、スポーツでも注目されている高校だったから。

大学卒業、修業スタート。

「大学は親が『東京の大学へ行け』というので、その時、初めて広島を離れます。大学ではアメリカンフットボールの同好会に入ります。大学時代は、あっという間だったですね。ただ、時間が経つのが早過ぎて、就活も何もしないうちに終わりかけてしまうんです/笑」。
「それで、どうしようかという時に、やはりホテルの4代目ですからね。広島にもどって、最初に就職したのは日本料理の喜多丘さんです。いくつかのお店をみて、ピンと来たもんですから。ただ、2人の兄さんがいたもんですから、紹介で、わりとゴリ押しで入社します。住まいは二段ベッドの2段目。兄さんのいびきが下から響きます/笑」。
「喜多丘」はミシュランで星を獲得している日本料理の名店だ。
「喜多丘にいたのは4年ちょっとです。料理の基本はぜんぶ、こちらで教わりました。ただ、私が就職してすぐ1人の兄さんがいなくなり、もう1人の兄さんも辞めてしまうんですね。それで、私1人です。ぜんぶ、私がやんなきゃいけない。だから、たいへんでした。でも、それが財産になったのも事実です」。
「辞めさせていただいたのは、昔から『海外に行きたい』という思いがあって。それがだんだん強くなって。それで色々調べて、ついにワーホリでカナダに行くことが決まったからなんです」。

MORIMOTOのオヤジ。

「もともと、森本さんとは2度お会いしていたんです」。ここで、坂口氏が「森本さん」といっているのは、世界的なシェフの1人である森本正治氏のことだ。
「『喜多丘』に2度いらしたんです。その時、うちの女将さんが、私が海外に行きたいのを知っていましたから、『この子、海外に行きたいんだけど、森本さんところはどう?』みたいな話をしてくださっていて」。
いろんな人が坂口氏を支援する。
「そうですね。そういうこともあって、森本さんが独立し、1号店の『MORIMOTO』をオープンする時に色々な人のご縁があり、カナダはやめ森本さんの下ではたらくことにするんですが、そう簡単にはいきません。ビザの関係もあって、私はけっきょくオープンから2ヵ月遅れで参戦です」。
「MORIMOTO」がフィラデルフィアにオープンしたのは、2001年11月のこと。
「とんでもなかったですね。森本さんは、もうすでに著名なシェフでしたから。客層も著名人ばかりですし…。そうですね、2005年からアメリカでも『アイアン・シェフ・アメリカ』っていう番組が始まるんですね。森本さんは、そちらでも鉄人を務めているんですが、それからはさらに拍車がかかりました。週末の売上は、とんでもなかったです/笑」。
「森本のオヤジの下で8年」と坂口氏。フィラデルフィア店のExecutive sous Chefにもなった坂口氏は、森本氏のエキスをたっぷり吸い込み、新たな人生をスタートする。
さらば、フィラデルフィアですね?
「まさに、そうですね」。
そう言って坂口氏は軽快に笑った。
・・・続き
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