2019年2月12日火曜日

株式会社四季の台所 代表取締役 洲之内 克氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社四季の台所 代表取締役 洲之内 克登場
本文より~

恵比寿生まれの恵比寿育ち 両親が飲食店を経営。

親戚が経営していた飲食店で修行し、父親が、中華料理店『赤とんぼ』をオープンしたのは1981年。これが、始まり。地域の住民がいつでも気軽に入れる食事処として『赤とんぼ』は気流に乗る。
「『なかよし』がオープンしたのは1989年です。もともと『なかよし』っていうお店があって、そちらから屋号も譲っていただいて、再オープンしたんです。ぼくが15歳の頃ですね」。
サックスのかっこよさに憧れ、高校では吹奏楽部に入部。
進学した高校の吹奏楽部は、当時から全国大会の常連で大勢の部員が祖属していた。サックスをやりたかった洲之内氏だが、オーボエに決まる。「吹奏楽部ではありましたが、部活スタイルは体育会系でしたね。毎日練習に明け暮れました。だから、東京のど真ん中に通っていたのに、ぼくらはあそびを知らないんです/笑」
吹奏楽漬けの高校時代を終え、洲之内氏は2浪ののち中央大学に進学する。
「もともと、うちを継ぐと思っていましたから、大学は行かないでいいやって思っていたんです。だって、行っても意味がないし。でも、その時、あの怖い親父が「大学はたのしいぞ」って囁くんです。そうか、そうだよな、そう思って、結局、2浪もしちゃいます。吹奏楽ばかりで、ぜんぜん勉強してなかったですからね」。

サラリーマンとして8年勤務。

「1993年には、横にあったお店も買って、それでカベをぶち抜いて一つにします。ぼくがまだ浪人中の話ですね。大学でも管弦楽部に入ります。そこでも担当はオーボエです」。
「親父が言う通り、楽しい学生生活を送って卒業です。うちの『赤とんぼ』も好調だし、『なかよし』も悪くない。でも、ぼくは、いったん就職する道を選びます」。
埼玉にある不動産会社だった。「営業です。当時、社員数2,000人くらいだったと思います。同期も300人くらいいたんじゃないですか」。
就職先では営業部に所属。
「ぼくらの事業部で営業は100名くらいいたかな。もともと、いつかは家業を継ぐつもりでしたが、その前に社会を体験するようなイメージですね。でも、始めてみると仕事も楽しくなって、辞めたくなくなっていくんです」。

2代目候補、暖簾をくぐる。

「結局、31歳になるまでの8年、在籍しました。宅建、ファイナンシャルプランナー、2級建築士の資格も取得しています。だから、うちの店を継ぐって選択肢は、だんだんなくなっていくんです。両親も何も言わなかったですし」。
ところがある日、突然、「店を継ごう」と思った。「なんででしょう。ぜんぜん意味不明ですね。でも、突然、そう思っちゃったんです」。
退職の翌日の12月1日には、2代目候補として暖簾をくぐっている。「今思えば、不思議ですね」と洲之内氏。「じつは、翌年の2月。父親が他界します。まったく、そんなこと思ってもいなかったです。数ヵ月だけですが、いっしょに働けて嬉しかったです」。
店の経営は好調だった。「『赤とんぼ』『なかよし』の2店の経営で、それなりの生活はできました。ただ、これで終わりたくない」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

0 件のコメント:

コメントを投稿