2018年12月28日金曜日

株式会社カワイハイ 代表取締役 濱野健嗣氏登場。

本文より~

20歳の今と、タイムカプセルに書き記した予想と。

小中学校の頃は、スポーツが好きで活発な少年だったそうだ。しかし、教育システム・学校制度にどうしても慣れず、高校では退学。15~16歳の頃から土建屋で働いていたそうだ。
「18歳になった頃ですね。岡山にいても何もやることが見えなくなってしまい、一念発起して、東京に行きます。親父が東京で仕事をしていたもんですから」。
東京では、横浜のボクシングジムに通った。「有名なジムだったんですが、芽が出ず、2年でリタイアします」。
東京にでて、2年。20歳。転機は、意外なところに埋もれていた。 
「ちょうど、成人式だったと思うんですが、いったん岡山に帰るんです。でも、その時、みんなで小学校まで行ったんだったかな。とにかく、小学校の頃に埋めたタイムカプセルを開けるんです。そしたら…」。
拙い字で、<これを開けた時、君はボクサーか、料理人になっている>と書いてあったそう。
「小学生の私に背中を押されて、もう一度、東京に向かうんです。今度は、残された『料理人』になるためです」。
「東京にもどり、田町にあるレストランで8ヵ月勤務します。料理人になるためだったんですが、その時はキッチンが一杯で、ホールしかなかったんですね。ただ、ホールは、ホールで楽しくて。お酒にも興味がわいて、『バーもいいんじゃない』と思うんですね」。
一つひとつ、現在地にちかづいてくる。
「それで、西麻布のバーを紹介してもらうんですが、どちらかというとショーが中心のお店で、バーテンダーとしての業務はお酒を作るのが中心で、接客をメインでやりたかった私には物足りませんでした。でも、その店のオーナーが、マネージャーを通じて、一つのバーを紹介してくれるんです。ええ、それが『ドランカー』です」。

月商50万円まで落ち込んだドランカーの話。

ホームページには、<始まりは2000年8月 東京都港区西麻布のはずれ BAR ドランカー(1984年5月創業)を引き継ぐために作られた会社でした。ハワイが大好きだった 先代のマスターにちなんで ハワイ島の小さな町 ”Kawaihae” を元に名前が付けられました。>とある。
そして、当時の代表取締役は<ポール近藤>とある。
「そうなんです。『ドランカー』っていうバーのマスターが亡くなられて。そのバーを残したいからと常連だった4人の方が投資されて経営を引き継がれるんです。当初の代表取締役、ポールさんも、その1人です。そして、私がマスターに代わって、店に立つことになりました」。
最初は、「だれだ、お前?」だったそう。「そりゃそうですよね。マスターがいると思ってきたら、私なんですから」。客が来るたびに、怒られた」と笑う。もとのマスターのファンが姿を消す。300万円ほどあったという月商は50万円にまで落ちる。いっしょにはじめたアルバイトスタッフもいなくなってしまった。
「いやー、あのときは大変でしたですね。でも、なんか、仕事は楽しかったんです。もとのマスターのファンは離れていきましたが、なかには、『ドランカー』がいいと残ってくださるお客様もいたし私のファンも少しずつ。ハイ、それで、半年後にはなんとか、月商150万円くらいには切り返します」。
お客様との言葉のキャッチボール。
「東京に来てから、友達も少なく、話し相手もそんなにいなかったので。でも、『ドランカー』で仕事をしている時は、毎日が楽しくて。タダで、いろんな人と話ができるわけですから。それだけでウキウキしていました」。
西麻布。大使館もある。外国人の方もたくさんいらしたそう。
「そういう外国人たちにも刺激されて、お店を辞めて、1年間バックパッカーをします。22歳の時です。オーストラリアに8ヵ月。ケアンズから、ゴールドコースト、タスマニアにも渡り、パースでは4ヵ月くらい仕事をしながら生活しました」。東南アジア、ヨーロッパ、アメリカにも渡った。
「計1年ですが、私のなかでは、むちゃくちゃでかい経験ですね。お金がないから、ドミトリーっていう1泊8ドルとか10ドルの、そうですね、10人くらいいっしょの部屋に泊まります。最初は警戒心がありましたが、慣れてくると、逆に安全だと思うようになるんです。人と会話して、心を通わすことが、どれだけ大事かを知りました。もっとも、東南アジアでは40人いっしょ。1泊、150円くらいなんですが、僕にとっては居心地がよかった/笑」。
1年で帰国して、もう一度、「ドランカー」にもどっている。
・・・続き
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