2016年7月20日水曜日

有限会社なんつッ亭 代表取締役 古谷一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社なんつッ亭 代表取締役 古谷一郎氏登場。
本文より~

暴走、時代。

27歳で天職に出会う。その時までの日々を、古谷氏はホームページで次のように語っている。「それまでの僕は、何も目標を持てず、何をしたらよいかわからないまま、ただただもがいていました」。
古谷氏は。1968年、神奈川県秦野市に生まれている。「両親は、定食屋を経営していました。ですが、父が大の博打打ち。店より、賭博です。でも、博打の稼ぎが、定食屋の稼ぎを上回っていたというから、ある意味凄いですよね。そんな父親でしたが、私が生まれてからは、まるで別人になったそうです」。
古谷氏には姉がいる。「この姉が、とにかく頭が良くって、つねに学年でトップだったんです。比べられる私はたまったもんじゃなかった(笑)」。
それでも血は争えない。古谷氏自身、中学2年の時に猛勉強を開始し、有名な進学校に進んでいる。
「入学当初は、その流れで540人中70番くらいでした。しかし、すぐに後ろにだれもいなくなった。1人いた、と思ったら、風邪で休んだ生徒でした(笑)」。
つまり、どんじり。
やればできたが、やる気がでない。「何もすることがなかったので、暴走族になりました(笑)」と古谷氏。きっかけは、姉の、ヤンチャな彼氏だったそうだ。
「両親は、別段反対しなかったですね。どうせ、説得しても無駄だとわかっていたんでしょう。母は、唯一、『捕まるな』って、忠告してくれていました」。
母親は、特攻服にアイロンをかけ、2000円を渡し、「ガソリン満タンにしていきなさい」と古谷氏を送り出したそうだ。
古谷氏が、高校生の時の話だから、1980年半ばの話である。暴走族真っ盛りの頃だ。古谷氏が、参加したチームは、30名くらいだったが、連合傘下を結集すれば2000~3000人規模にも膨れ上がったそうだ。
改造車や改造バイクが、咆哮をあげた。車から身をのりだし、鉄パイプを夜空に突き立てた。いさましい咆哮と異なり、1人1人の心のなかはどうだったんだろう。「社会に対する不満が暴走を促した」と訳知り顔の評論家もいたが、「ただただもがいていた」というのが正解ではないだろうか。
ともかく、暴走の結果、古谷氏は2年で高校を退学している。

27歳で降りた天啓。

「22歳になって、定時制高校に入り直しました。やっぱり、高校くらいはと思って、です。定時制というのは、いろんな学生がいるんです。おっさんもいる。もちろん、私のようなやり直しもいる。先生は、たいへんです。でも、熱血漢の先生が多かった。私の担任も、熱心な人で、その人の勧めで、夜間の大学に進学しました」。
しかし、長くつづかなかった。というより、すぐさまという表現のほうがいいだろう。
「大学に進んで、ちょっとまじめに勉強したら、いきなり成績トップです。久々の勉強だったんですが、自分はやはり、『やればできる奴』だということが再認識できたんで、退学しました(笑)」。
何をしに、入ったのか。目的は、惰性にかわった。24歳から27歳までは、「パチンコ、カツアゲ、ヒモ生活です(笑)」。その時、お金をだしてくれた彼女が今の奥さん。いい話である。さすが特攻服、である。無骨で、案外、一本気なのだろう。
そして、27歳で天啓が下りた。
「27歳の時ですね。TVでラーメン特集をやっていて、行列ができていたんです。これだ、と」。冒頭で引用したように、何も目標を持てず、何をしたらよいかわからないまま、ただただもがいていた古谷氏の前に道が広がったのは、この時である。
しかし、ひらめいたといっても、ラーメン店の経営は簡単ではない。むろん、出店するにも経験がいる。「これだ」と思うのはいいが、いまだスープひとつつくれないのだ。
「それからは、行列ができるラーメン店を食べ歩きました。でも、旨くないんです。なんでだろう、と思うんです。根が単純ですから、俺ならもっと旨いのができる、と思っちゃうんです」。
「俺ならもっと旨いラーメンをつくれる」と、算盤を弾く。「週1日は休みがいるでしょ。だって遊びたいから。でも、週休1日で計算しても楽勝なんです。だって毎日100杯売れば、ベンツだって買えるわけですから(笑)」。

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