2016年4月8日金曜日

株式会社鯖や 代表取締役 右田孝宣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鯖や 代表取締役 右田孝宣氏登場。
本文より~

大阪市西淀川区、生まれ。

今、注目されている「とろさば」を仕掛けたヒットメーカーである株式会社「鯖や」代表取締役、右田孝宣氏に登場いただいた。
右田氏は1974年、大阪市西淀川区に生まれている。2つ上の兄と双子の弟の3人兄弟。実家は代々続く、和菓子店だった。
「兄は、真面目な性格でしたが、私たち双子は小っちゃい頃から、やんちゃでした。2人とも好奇心が旺盛で、トラックのへりにつかまって信号から信号まで移動するなんていたずらもしょっちゅうしていました」。
次の信号で止まるはずが、運転手にとっては運よく青信号がつづき時速は80キロくらいになったこともあったそうだ。むろん、振り落とされれば大怪我必至である。
中学生になってもやんちゃな性格はそのままで、一言でいえば「ヤンキー」だったそうだ。もっとも、「ヤンキーといっても、うしろについて歩くだけの小ヤンキーだった」とこちらを笑わせてくれる。
やんちゃなぶん、運動神経も良かったそうで中学時代はバレーとサッカーを掛け持ちしている。
中学は3年で済んだが、高校は4年、通った。
「1年の時に、ダブってしまって」と右田。一時は、退学しようとまで考えたが、母と双子の弟の励ましで、無事、卒業できたそうだ。

苦手な魚を克服?

高校を卒業した右田は、水泳教室のインストラクターになった。卒業して1年くらい経った頃だろうか。19歳の時に、友人に誘われ、魚屋に就職する。
「もともと私は、魚が食べられなかったんです。魚屋の仕事は匂いもするし、からだもキツイ。最初は、すぐに辞めてやろうと思っていたんですが、友人の顔を潰すことはできない。ところが、だんだん楽しくなってきて、魚も見事、克服。お客様にお勧めするのも楽しくなってきて。そうなると、料理方法も探求するようになるから不思議です。で、私が魚を食べられなかった理由もだんだんわかってきます。うちの母親は魚の臭みを引き出す名人だったんです(笑)」。
22歳で、転職。同じ魚屋だが、規模が大きな魚屋に移った。
 だが、まだ若い。気持ちも揺らぐ時期である。
「転職したものの、このままでいいんだろうかって。将来が不安になる頃ですよね。その時、会社の後輩のお兄さんが、貿易関係の仕事をされていて、海外の話を聞いて憧れるんです」。
一言でいえば「かっこいいな」と思ったそうだ。それで、いきなり海を渡った。オーストラリアのシドニーへ、である。
英語ができなかったから、付け焼刃で対応した。高校の先生に頼み込んで1ヵ月半だけ英語を習っている。

シドニーにて。

付け焼刃の英語で、3ヵ月かけオーストラリアを一周した。向こうの環境に慣れるためである。職もみつけた。
「シドニーでは、寿司屋で勤務しました。魚もさばけますし、目利きもできます。けっこう重宝いただいて、2年弱のうちに、向こうでは社長の次のナンバー2になりました。その当時の社長とはいまだお付き合いがあるんですが、とてもエネルギッシュな方で、いまのうちのビジネスモデルの原点も、この社長から教わったと言えるかもしれません」。
大恩人だが、むろん、いい時ばかりではない。「いつか、退職しようと思っていたんですが、それが2年少しという時期になったんです。子会社の社長に、って話をもらい、それをきっかけに退職しました」。
シドニーの寿司屋を退職し、帰国。英語も多少だが、覚えた。ビジネスの仕組みも覚え、経営のノウハウも学んだ。ナンバー2にもなった。俺にできないことはない。
少し、鼻も高くなった。

・・・続き
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