2015年12月24日木曜日

株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にステーキ听の株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏登場。
本文より~

やんちゃな奴は、ラグビー部に入れ。中学時代に流した汗と悔し涙。

今回、ご登場いただく株式会社T・Sコーポレーションの代表取締役、徳山哲大氏は1977年、京都市南区に生まれる。
「父は、建築関連の会社を細々とやっていました。社長1人、従業員1人というような会社です。兄弟は3人。私が末っ子で、長男と長女、そして、私です」。
末っ子ということもあったのだろう。小さな頃から好き勝手に何でもやる性格だったそうだ。
「これは、兄もいっしょなんでしょうが、とにかく負けずキライでした。目立つのも大好き。運動神経も悪くなく、陶化中学校に進学してからは、ラグビーを始めます。陶化中学校は京都府内でも有名なラグビーの強豪校だったんです」。
ポジションは、スタンドオフ。あの有名なラグビーの、平尾誠二氏とおなじポジションである。ちなみに、平尾氏も京都市南区出身である。
「当時、『やんちゃな奴は、ラグビー』っていう風潮があって、私もラグビー部に入れられてしまったわけです(笑)。練習ですか? そりゃきつかったですね。『お前らは、勉強しなくていい。ラグビーをしろ』って。そういう学校でしたから、練習も朝・昼・晩。今と違って水も飲めない。練習地獄です。でも、それだけ練習しても、私たちの代はパッとしなかったですね。いち学年うえにはタレントが多く、ベスト2までいったんですが、私たちはベスト8が最高でした」。
徳山氏の代になって、監督が一時不在になったことも、いい成績を残せなかった理由だろう。
しかし、それとは別に、徳山氏にはいまも悔いが残っている。
「練習で、膝が折れてしまったんです。病院に行ったら、即入院と言われ、最後の試合に出られなかったんです」。
負けずキライの徳山氏にとって、あまりに悔しい思い出でもある。

泣きながら、乗ったトラック。兄弟3人の戦い。

「高校になって足も治ったんですが、もうラグビーはいいかな、という気分になって、サッカーに転向します。進学したのは、今夏(2015年の夏)、甲子園に出場した鳥羽高校です」。
当時の徳山氏の学力から言えば、「鳥羽高校」は高いハードルだったそうで、たまたま、受かってしまったそうだ。
とにかく、学業のレベルもあげつつ、高校を卒業した徳山氏は、父の下で建築関連の仕事を開始する。
「私たちは、兄弟3人で助け合って、励まし合って父がはじめた事業を拡大し、京都でも名の知れた会社にしていくですが、最初に入ったのは末っ子の私だったんです」。
当時の話も聞いてみた。
「最初は、給料もでませんでした。でも、歯をくいしばって。給料がないから、夜はショットバーでバイトをしました」。
ちょうど、この頃、父にとっても、兄弟3人にとっても最愛の、母親が亡くなった。
「これが、ひとつのきっかけですね。兄弟みんなが一つになったのは。兄も、姉も、いっしょにやろうと」。
徳山家の挑戦がはじまった。
もちろん、いばらの道であることは、だれの目にもあきらかだった。2人だけでも、食べていくのに精いっぱいの会社である。
「兄も姉も、社会人だったんですがもどってきてくれました。とにかく、『いっしょにやろう』って。『兄弟3人、ちからを合わせればなんとかなる』って」。
徳山氏にとっては、何より心強い援軍だったはずだ。「私は、ラグビーで鍛えた体があったから、きつくても大丈夫。だから、作業担当です。兄は、頭もいいから、営業です」。
負けずキライな兄が、頭を下げているのを何度もみた。その度、徳山氏のエンジンが点火する。
「兄が獲ってきた仕事は、『何でも引き受けてやる』って思いました」と徳山氏は当時の心境を語っている。
兄は、京都府内にある、ゼネコン、工務店を片っ端から回った。契約をもらうまで何度でも、頭を下げつづけた。
経営のことがわかっているわけではない。許可についても詳しくは知らなかった。只々、頭を下げ、只々、利益を確保できるように仕事に没頭した。「泣きもって、トラックに乗った」のも、この時である。
ひと息ついた時には、10年が経っていた。会社は、京都でも、少しは知られる会社となっていた。
「事業が安定したもんですから、そろそろ、ええんちゃうかと思って、私自身、昔からやりたかった飲食店をやろう、と思ったんです」。
姉のご主人であり、現在、副社長でもある竹村氏と2人、新たな旅が始まる。

・・・続き

株式会社T・Sコーポレーション 代表取締役 徳山哲大氏
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