2014年5月24日土曜日

吉野家の安部社長が退任され、河村泰貴社長中心とした新体制に移行。楽しみ!!

飲食の戦士たちより
株式会社はなまる 代表取締役社長 河村泰貴氏 2009年06月02日掲載) 

人の教育は厳しすぎてもダメ。ゆるすぎてもダメ。


株式会社はなまるうどんは吉野家グループの一企業である。河村社長ももともと「吉野家」にアルバイトから入り、現場からの“たたき上げ”で株式会社はなまるの経営者にまで登りつめた。二世経営者でもなければ、創業者でもない。実力だけでトップになった。「でも経営者願望のようなものが特にあったわけではありません」と氏は謙虚に話す。
河村氏は23歳の時に、それまで勤務してきた「吉野家」の社員に登用された。学生時代から吉野家でアルバイトしていた河村氏にとって、店舗運営に関することはすべて、“できて当たり前”だった。それが気負いになったのか、店長になって一店舗目はスパルタ教育を敢行した。
「初めて店長職につき、“バイトとは違う”と力みすぎたのかもしれません。バイトがどのように手を抜くのかを、過去の自分の経験からよく知っていたので、部下をとことん厳しく教育しました。でもそれでは人がついてこなかった」
そこで2店舗目では、河村氏はその真逆を実践してみたという。
「楽しく働けることをモットーに、ムードメーカー的な役目を果たしながら店長を務めました」。しかしまたしても失敗。“人は易きに流れる”の法則で、全体的にルーズな店になってしまったのだ。
“三度目の正直”で、3店舗目では“アメとムチ”を採用した。叱る時にはスタッフをすぐにその場で叱り、ほめる時にはみんなの前でできるだけ具体的にほめた。こうしてようやく店長としての手腕を十分に発揮できた。河村氏が25歳の頃である。


異動を命じられ、うつうつとした日々。それでも…。


店長職でめきめき頭角を現した河村氏は、かなり早い段階でSV職に大抜擢された。しばらくは順風満帆な人生が続くように思われた。しかし28歳の時、突然、転機が訪れた。
「関連会社のシンクタンク部門に出向になったのです。毎日ただひたすら新聞や雑誌を読むだけで、店長のような充実感を味わうことができませんでした。自発的にレポートを書いて提出したりしましたが、それでもつらくて…(苦笑)。自分が貢献している実感があまりにもなく、うつうつとした日々を過ごしていました」と河村氏。
 当時、河村氏は“辞めよう”とこそ思わなかったが、「水銀電池のように生きよう」と考えていたという。「だらだら迷いながら働くのだけはやめよう。水銀電池のように、頑張るだけ頑張ってみて、それでもダメな時は、またその時…」と腹を据えていたのだ。
 このような割り切りが、「逆に良かったのかもしれない」と河村氏は振り返る。環境の変化に対応する能力や、“何とかなる”と前向きでタフな姿勢が身についたのだ。また、膨大な情報が流れ込んでくるシンクタンク部門に籍を置いたことで、情報感度が一気に高まり、「情報の嗅覚のようなものが研ぎ澄まされた」と河村氏は話す。
「無駄な時間ではなかった。この時期の経験が後に生きてきた」と河村氏は念を押す。


飲食業とは感動を産み出すドラマ。そのドラマを演出してくれる社員を求む。


その後、吉野家に復帰した河村氏は、まさに“水を得た魚”のようだった。はなまるに出向してからも、さらに仕事に対する情熱に火がつき、飛躍的な成長を遂げている株式会社はなまるを第一線で牽引してきた。2010年には株式上場も目指す。
中でも特筆すべきは、東京の渋谷センター街の店舗。連日、大行列ができる繁盛ぶりで、しかもお客のほとんどは女子高生というから驚きだ。“学生のデイリーユーズの店”としてポジションを確立し、他チェーン店の追随を許さない勢いで、いまなお成長しているのだ。
「飲食業は言ったもん勝ち。やったもん勝ち」と話す河村氏。部下に対しても、手を挙げた人にはとことんチャンスを与える方針だ。完全実力主義の世界を作り出し、99%を中途で採用している。業界未経験者でも活躍できるように、さまざまな教育制度を用意している。
「お客様が店に入ったら、そこから“お客様とスタッフとのドラマ”がスタートする」と緊張した面持ちになる河村社長。スピーディーに商品を作り上げ、最高においしい本場の讃岐うどんを堪能してもらう。その瞬間はもはや単なる外食ではなく、感動を生み出すひとつのドラマ。「素敵なドラマを演出してくれる若手社員を募集したい」と河村氏は意欲的だ。

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