2014年5月15日木曜日

ミシュラン3つ星の銀座小十 銀座奥田 店主 奥田 透氏登場。


本文より~

野球少年時代の話。

駿河湾の海岸線は、御前崎を西の突端に、西から辿れば左にカーブを描きつつ、大きく反転しながら、静岡、神奈川、東京、千葉と、4つの県を舐める様にしてから房総半島の突端に繋がっていく。
奥田が生まれた静岡市駿河区下川原は、この駿河湾に面した小さな町で、有名な漁港「焼津港」を少し北に進んだ所にある。付近には安倍川という大きな川が流れ、こちらは少年、奥田の格好の遊び場だった。
奥田は3人兄弟の長男で、妹と弟がいる。父は郵便局員。普段は温厚な性格だが、話が野球の事となると別人になったそうだ。その父の影響もあったのだろう。奥田は、小学校に入学すると同時にソフトボールを始めた。
「毎日、暗くなるまでボールを追いかけていた」と奥田。「学校の行き帰りの時間も無駄にすまいと、爪先立ちで通った」とも言っている。そして小学3年時から、レギュラーに選ばれる。周りは高学年の選手ばかり。
「そうなると父が、一層期待するんです。ある日、ファミリーレストランに行ったのですが、ステーキを食べていいのは私だけ。私の体を強くしようと思ったんでしょうね(笑)」。
父の思惑とは異なり、ステーキを食べた奥田は、「食」に目覚めるようになる。
「小学4年の時には初めて鮨屋に行ったんですが、この時、カウンターに座って食べた寿司の味は今でも忘れられません」。
中でも、イクラとウニが格別だったそうである。
中学生になった奥田は、父の期待通り、ソフトボールから野球に転じた。練習は段違いに厳しくなったが、奥田は、それにもめげる事なく、泥塗れになりながら白球を追い続けた。
「ところが、3年の夏かな。試合にあっさり負けてしまうんです」。
3年間、厳しい練習に耐えた事は自信になったが、チームプレーの難しさを知ったのもこの時である。

仲買人たちの話。

高校に進学した奥田は、野球からサッカーへ転向する。そういえば静岡はサッカーが盛んなエリアだ。奥田の進んだ高校は進学校だったが、スポーツにも力を入れていた。
「サッカー部に入部するんですが、経験が無いでしょ。流石に高校からでは、ハンディが多過ぎでした。それでも、何とかレベルを上げようと…」。
奥田は朝6時に登校し、ボールを蹴った。そうしているうちに、コーチが手伝ってくれる様になり、いつしか1年生全員が参加する様になる。
そんな中、監督から「マネージャーにならないか」と打診された。
「一度はお受けするんですが…」と奥田。皆についていこうと、1人で自主練習も重ねた。しかし、チームの他のメンバーのようにボールを支配する事はできなかった。
ただ、そのことより、マネージャーを打診されたことの方が、余程応えたのではないか。後にサッカー部を退部することにした。
これが、後々の転機の伏線となる。
「今まで、野球に打ち込んでいたでしょ。サッカーも、そう。でも、そういう打ち込むものが無くなってしまって…彷徨い始めます」。
退部すると、やることがなくなった。休みは一層長く感じられた。
夏休みを利用して仙台に向かったのは、そんな1年の夏である。
「母方の親戚がいる仙台に向かったんです」。
親戚が経営する海の家を手伝ったり、マグロの仲買をしている親戚もいたので、そちらを手伝ったりした。
その仲買の手伝いで生まれて初めて「男の社会を見た」と奥田。漁港に並べられたマグロ。磯の匂い。真っ黒に日焼けした男たち。筋肉は盛り上がり、マグロを観る目は厳しかった。目利きだけで生きている男達が、奥田を魅了する。
「元々団体競技には、苦い経験があったわけで。それで、一匹狼の様な仲買人達を見て、個人競技の様な仕事もあるんだと、そういう仕事を意識する様になったんです」。
静岡に帰ってみると、たまたま母の従妹が板前と結婚した事を知り、その店の手伝いをさせて貰った。板前という職人の仕事に興味を抱いたからだ。
「はっきりと飲食を意識したのは、あの時からだと思います。接客の楽しさも知り、何より板前という仕事に惹かれました」。
ここから、奥田の料理人生がスタートする。・・・続き
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