2022年3月18日金曜日

株式会社甲羅 代表取締役社長 鈴木雅貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社甲羅 代表取締役社長 鈴木雅貴氏登場。

本文より~

と冬、年2回の家族全員での旅行が、
日頃の忙しさで希薄になりがちな家族の時間を取り戻した。

合掌造りの店舗がひと際目を引くかに料理の「甲羅本店」を筆頭に、「赤から」「カルビ一丁」などの和食料理、居酒屋、焼肉料理など21ブランドをはじめ甲羅グループ全体を率いる二代目経営者・鈴木氏は1972年生れの50歳で出身は愛知県豊橋市。姉と弟に挟まれた3人姉弟の長男だ。社長に就任して3年目を迎え幼い頃を振り返って、こう語る。
「おばあちゃん子なんです」。その理由は?
鈴木氏が生まれる3年前の1969年、父であり初代社長、そして現在は会長職を務める鈴木勇一氏が「どん底」という飲食店を開業。以後、新たな業態に挑んだり、店舗を拡大することなど経営にエネルギーを注ぐ父。開業当初から母親も一緒に働いていたこともあり、記憶しているかぎりでは忙しさのためか、早い時間に帰宅することがほとんどなかったという。
「ちょうど甲羅を開業しFC展開も始めた頃で忙しかったんだと思いますよ。そんな多忙な両親に代わっておばあちゃんに育てられました」
こうした家庭環境で育った鈴木氏だが、「子ども心にも事業を継ぐ気は、まったくなかったですね。父は継がせようと考えていたかもしれませんけれど……」
一方で両親は、日々の忙しさや子どもとの時間を補うかのように、空白を埋めるかのように家族との豊かで、和やかで暖かい、心に沁みる時間を演出した。
「休みの日は外食に連れてってくれましたし、年2回、夏休みと冬休み、北は北海道から南は沖縄まで家族全員で2泊程度の旅行に行きました。楽しかったですし両親もその時間は仕事を離れてリラックスできる貴重な時間だったんでしょうね」と過ぎ去った家族のイベントを懐かしむ。

小学校から高校まで、野球→テニス→卓球と「ボール」を扱う競技に親しむ。

「おばあちゃん子」だったと語る鈴木氏だが、どんな子ども時代を過ごしていたのか。
「自然が好きでした。魚釣りが好きで、よく近所の池や川で魚釣りをして遊んでいました。自然が育ててくれたようなものですし、こうした意識や関心、環境がやがて職業の一部になるとは思いもよらなかったですね」
現在50歳ということは、いわゆる“団塊ジュニア”と称される世代にあたる。こうした子ども増加が要因になった結果、中学校は1学年16クラス(!)だったとのこと。「ただ翌年、新しい中学校ができたので10クラスに減りました」。減ったとはいえ10クラス、現在では想像できないほど、子どもの多かった時代である。
「中学校は、自宅から徒歩1㎞ほどの距離にありました。小学校時代は野球をやっていたのですが、中学校入学後は姉の影響もあり部活として“軟式テニス”をしていました。3年間です。3年間続けられたというのは、上手になりたいと思いとは別に、友だちに会うのが楽しいという側面もあったからです」
平穏無事な3年間を過ごし高校へ。「従兄弟が在籍し自由度が高いことで知られていた蒲郡の私立高校へ進学、片道20分くらいかかる電車通学でした。規模は結構大きくて、1学年10クラスだったと思います。小学校では野球、中学校では軟式テニスに取り組んでいましたが、高校では卓球部に入部しました」

荒れる中学、高校を過ごした時代、まだ飲食業はほど遠い職業だった。

しかし、鈴木氏が中学校、高校を過ごした1980年代前半から、いわゆる校内暴力などが全国に広がり「荒れた中学、荒れた高校」と呼ばれる現象が顕著になり社会問題化した時代でもある。
「中学校の頃は“スクールウォーズ”の時代で卒業式に警察が出動するなどの事件がありましたし、高校では近隣の高校とトラブルが続いたりと、やんちゃな時代でしたね。こうした現象や状況、鈴木氏に被害はなかったのか、どう乗り越えたのか。
「決して質実剛健、品行方正という生徒ではなかったと思いますが、大きな被害にも合わず、そうしたやんちゃな連中に誘われもせず、友人たちと豊橋から岡崎まで~30㎞程度の距離~自転車で行くなど遊んでいましたし、ごくごく普通の高校生でした」
一方で鈴木氏が中学校、高校に通っていた頃、家庭はどうだったのだろうか。
「高校の頃、“甲羅”“かまど”“カルビ一丁”などFC展開で店舗がどんどん増えていく時代でしたから、特に父親と顔を合わせる時間少なかったですね。また父親は、家庭に仕事は持ち込まないというのがモットーでしたから、キツイ時期だったんでしょうが、仕事の苦労について語ることは一切なかったですし、今になっても昔のことを訊くことはありませんね」
また「FC展開で店舗が増え、出店地域が拡大してきた要因の一つに、父がOGMコンサルティングで学んだことが大きかったと思いますよ」と続ける。
とは言え、父が経営する事業が発展・拡大していく環境にありながら鈴木氏の胸中には、「継ごう」という意識は、まだ希薄だったようだ。いつ芽生えたのか。

親元を離れ生きることを意識した一人暮らし。
将来を見越して経済学部へ進んだ。

高校卒業、そして大学進学。この際、こだわったことが三つほどあった。
「一つは地元を離れる。二つ目は一人暮らしをしてみたい。三つ目は新しい環境に身を置いてみたいという思いです。元々が新しい所に行くことが好きだったこともあるかもしれませんね」。入学したのは千葉県千葉市にキャンパスを構える『敬愛大学』。「社会に出たときの準備の意味もあり経済学部を選びました」
どんなに多忙であっても、父と母の存在は大きかった。その目線の暖かさを肌で感じていたからこそ、親元を離れ一人で生活したい、新しい環境に身を置きたいという願望が膨らんだのだろう。
「進学後、サークル活動を立ち上げました。活動の特徴としては、全方位型“なんでもサークル”です。そのたまり場が私の借りていた部屋だったんです」
「社会勉強と言いますか、社会に触れる意味もあり飲食店でアルバイトを始めました。“うなぎ割烹”でした」
その後、舞浜のホテルでのルームメイキング、警備会社、宅配便の荷物仕分けなど短期のアルバイトを経験しながら、「自らが自らの力で生きるここと」を経験、学んできた。
「一時期ですが、1日100円生活を体験したんですよ」と語ったが、1日を100円で賄うというのはどんな生活だったのだろうか、きちんと食べられたのだろうか。
「サークル仲間やアルバイト仲間が、たまり場となっている私の部屋に惣菜など食べ物を届けてくれたんです。ですから飢え死にするようなことはありませんでした(笑)」
「友」はありがたい。

外国の空気に触れた大学時代

大学時代のサークル活動は、鈴木氏に「人との出会い」をもたらし、かつ視野の広がりを教えてくれた。その一つが、短期間とはいえ2度にわたるアメリカで生活したことだった。
「高校時代、家族旅行でハワイに行ったことがあったのですが、大学1年と3年、2度にわたって、たった1人でアメリカに行った体験が楽しかったですし、大袈裟ですけれど世界の広がりを感じました」
初の単独渡米は、西海岸ワシントン州北西部に位置するシアトル。
「1年生のときでした。留学していた親戚がいたんです。迎えに来てくれることになっていたんですが、シアトルの飛行場って、日本では考えられないほど広くて、出口もいっぱいあるんです。その結果、ちょっとした行き違いというか勘違いで待ち合わせがうまくいかず、なかなか巡り合えませんでした。まさに“ポツンと一人ぼっち”状態で言葉は通じないし、会えないなら日本に帰ろうと思いもしましたが、どうしたらいいか分からなくって……。結果的には到着4時間後、無事に巡り会えたのですが、会えるまで、心細かったですね。いまにして思えば笑い話ですけれどね」。シアトルには1か月滞在した。
「2度目は3年のときです。アメリカ・カルフォルニアでのホームステイでした。やはり1か月ほどでした」
当時、アメリカへ行き短いながらも海外生活を体験したといっても学生生活の延長であり、やがて、仕事で海外に行くことになるなど考えもつかなかったし思いもよらなかった。その鈴木氏にある出来事が大きな刺激となり、劇的な変化が訪れた。

初めて目にした父が仕事に取り組む姿が、「継ぐ」ことを決意させた。

かに料理「甲羅」の最大の課題は、常に安定的に「かに」を確保することに尽きる。そのために重要なのが「買い付け」「仕入れ」だ。
「大学3年のときでした。父がかにを買い付けるためにカナダに行く機会があり、その機会というか商談に同行したことです」
幼い頃から仕事で家を空けることが多かった父は、家庭に仕事を持ち込むタイプではなく、具体的な仕事内容も子どもに語ることもなく、鈴木氏自身も父の仕事ぶりを目にしたことも聞いたこともなかった。
話は少々戻るが、「幼い頃から自然が大好き」と語った鈴木氏にとって、日本とはまるで違う大きなスケールのカナダにも魅了されたようだ。「大きく広いだけではなく、豊かだし穏やかな土地の印象でした」
「期間にして1週間ほどでした。小さな漁村を訪ねたり、仕入れのための問屋を開拓したり折衝したりする父の姿は、初めて見る姿でした。新鮮でしたし眩しかったですね」
「会社を継ごう」

世界一危険と恐れられている海での「かに漁」~すべての始まりは現場体験から

会社を継ぐことを決心したが、大学卒業後、すぐに甲羅に入社したわけではない。入社後、甲羅の仕事を覚え、運営していくために欠くことのできない経験や蓄積が必要になる。 また、「社長の子」だからと言って特権があるわけでも優遇されるわけでもない。第一、社長がそんな「ショートカット」のようなことは許さない。
基礎的な訓練、知識の集積、経営を学ぶなど課題は多い。いわゆる「他人の飯を食う」ことで身に付けることも多くなる。「継ぐ以前」に、必要な課題をクリアすることが「継いだ後」の仕事への取り組み全般に役に立つ。こうした背景もあり、就職した。いわば、「修業」である。
就職したのは、水産会社「極洋」。
「ここで鍛えられました」と振り返る鈴木氏は、「かに漁」の最前線を経験する。場所は、カムチャツカ半島、アラスカ、アリューシャン列島に囲まれた太平洋最北部、別名「低気圧の墓場」とも呼ばれ漁師に恐れられているベーリング海。常に10m以上の高波、船体付着する氷や流氷など、想像を絶する海のようだ。
「凄い荒れ海です。船は揺れるし、気温はマイナス40℃ほどで寒いし、海に落ちたら、即、心臓麻痺で死んでしまうほどの、これ以上過酷な海ってないのではないかと思うほど、荒々しい海です。ただ、ここでないと“良質なかに”は獲れないんです」
実際に流氷で動きが取れなくなったり、動けなくなった他船を救助にいくなど、「かに漁」どころではない状況に遭遇したこともあるようだ。
「船を動かすスタッフとは別に、私のような“バイヤー”と捕獲したかにを加工する“ワーカー”の総勢300人程が乗り組んで漁をするのですが、この労働条件、労働時間もキツイです。“ワーカー”は1日2交代の12時間勤務ですが、“バイヤー”は丸1日、24時間勤務なんです」
仕事はこれだけではない。「買い付け」から「仕入れ」まで、捕獲から一貫した流れすべてを構築し結果をあげるのが仕事だ。
「当初は3年の予定でしたが、プラス1年、合計4年、ここで学びました」。ただし、これで“学び”“修業”は卒業したわけではない。

・・・続き

株式会社甲羅 代表取締役社長 鈴木雅貴氏

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2022年3月14日月曜日

3月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『あさくま』様を取り上げました。

3月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はあさくまで昔から人気のコーンスープを「ゴースト店」始動!!その『あさくま』様を取り上げました。

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1月29日(土)から5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店”に「シャルパンテ」藤森真社長推薦の5店舗が紹介されました。

2022年1月29日からの5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「シャルパンテ」藤森真社長が推薦の5店舗が紹介されました。



2022年3月8日火曜日

株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏氏登場。

本文より~

カルチャーママとおぼっちゃん。

今回、ご登場いただいたVAプロジェクトの代表、森本氏は1965年、大阪府の豊中市に生まれる。大阪万博が開かれる5年前。「親父と母親と兄貴と私の4人家族です。親父はサラリーマンでしたけど、裕福やったんちゃいますか。いうたら、ぼっちゃんです。まぁ、高度成長の時代でしたから、うちだけが裕福やったわけやないんでしょうが」。
「子どもの頃からピアノを習っていました。カルチャー好きな母親でね。私は好きやない。野球はへたでしたけど、からだ動かすのが大好きでした。将来、なりたいもんいうたら、そやね、プロレスラーやったかな。ブルースリーも大好きやった。でも、太っとったから、あの動きは無理やったやろな。生まれてから一度も『やせている』っていうてくれた人はおらん」。
「エスカレーター進学を狙って、中学から私学です。高校から日本拳法をはじめます。かっこいい? ぜんぜん。汗臭いだけ。でも、好きやってんやろね。好きやないとでけへんで。そやないと、だれが好き好んで汗だくなって、くそうなって、ボロボロなるまで練習すんねん。笑」
大会で優勝したこともあるそうだ。格闘技が好きで、相撲もしていたというから、昔から、からだも大きかったに違いない。カルチャー系からスポーツ系に。格闘技に、次々に専念する息子を、カルチャー好きのお母さまはどんな思いでみつめられていたんだろうか?
少なくとも、ぼっちゃんはとっくに卒業している。

キャプテン森本。

「私は関西大学を卒業して、リクルートに就職するんですけど、当時は青田買いちゅうてね、もう、『来て』『来て』みたいな。大学でも日本拳法やってましたし、キャプテンでしたから、企業がほっといてくれません。飯も食べに連れてくれるし、至れり尽くせりです笑」。
「リクルートがなにやっているかようわかってなかったけど、すごく勢いがあったのは事実です。私が入社したのは、世間様をお騒がせしたリクルート事件が起きる2年前です。職種は、もちろん、営業です」。
当時のリクルートは多士済々。いまもそうかもしれないが起業家もたくさん生まれている。「私はいうたら起業家の走りです。4年、リクルートにいて独立します」。
リクルートにもまれ、社会にもまれ、さて、キャプテン森本はどんな事業を興すんだろうか。話を聞いて、まったく畑違いで、驚いた。

世界でいちばん小さなゲームメーカー。

「私はゲーム会社をつくるんですが、もともとゲームが好きとかそんなんじゃないんです。リクルートに4年いたでしょ。その時思たんが、『リクルートで偉くなったら、しんどいで』やったんです。課長とかになったら、もうどうなるかわからへん。それやったら、サラリーマンをつづけるより、会社つくったほうがええんちゃうかなって」。
「時代もよかったしね。スーパーファミコンの時代です。任天堂さんに行ったら、いろいろ教えてくれて。当時はゲームやりたい人がおおくてね。それで、プログラミングできる人材を雇ってスタートするんです」。
タイトルを聞いて、笑った。
「この会社は2006年に解散するんやけど、解散するまで、だいたい100タイトルくらいはリリースしました。狙うんはスキマです。心理ゲームとかね。タイトルで言うたら、『祇園芸者物語り』とか、『サラリーマン接待マージャン』とか。これトップとったら、あきませんねん。接待やからね。海月育てるゲームもだしました。うれへんかったけど」。
もう、25年前の話。
「プレステとかでて、2Dから3Dになって、一つ開発するにもごっつうコストがかかるようになって。有名なタイトルやったら、いくらコストかけてええんやろうけど、莫大なコストを投じて『祇園芸者物語り/2』や『サラリーマン接待マージャン/2』はようつくらんかった」。
「若い子はいっぱい入社してくれました。会社で寝泊まりしていましたよ。給料は、いわれへんくらい安かったけど、彼らにしたら、うちに入ったら開発用の、お高いマシンをつかえますからね。なかには、その後すごく有名になっている人もいますよ」。
「あのね。みんなうちで経験を積むでしょ。ほんで、ほかの会社を受ける。で、ある日、『〇〇に行きます』って、だれもが知っている有名な社名をいいよんねんな。ほなら、みんな拍手して。なんで、拍手やねん、て。笑」
そうはいうが、心では森本氏もいっしょに拍手をしていたような気もする。そんな人だ。ところでゲーム会社の社長だった森本氏だが、今は立派なIT難民。「エクセルもようでけへん」らしい。
「解散したのは、ビッグタイトルしか残らんような感じやったし、資金ショートもあったけど、けっきょくは私の熱意がなくなったんやと思うわ。うちみたいな小さなメーカーはもうあかん時代やった。だから、解散しよかっていうて」。
2006年といえばスマホでみんながゲームを楽しみはじめた頃だろうか?「あんなちっちゃい画面な。あんなゲームつくったら、都落ちやと思っとった」と言っている。

さすらうニート。

「私の窮状を知って、昔の部下が『恩返しや』いうて、仕事紹介してくれて、パチンコメーカーの下請けやったり、お金がないから、マンションの販売代理をしたり。ちゃんと免許も取って。。ほかにもいろんなことしたなぁ」。
「いちばんってわけやないけど、山本化学っていう会社の社長さんといっしょに『たこ焼きラバー』いうやつで水着つくって。これは世界中をびっくりさせました。それまでとはまったく異なる高性能の水着で、世界記録が何十回でたやろか。TVにも取り上げられて。せやけど、水泳連盟が『あかん』っていいだしよって。『ラバーはあかん』っていいよんねんな。で、せっかく、世界を獲った思うたのに縮小ですわ。でも、水着は今も販売してますねん。『イルカのはだにいちばんちかい水着。』って奴です。専門誌に広告掲載しているんやけど、ぜんぜんうれへん笑」。
皇室に献上する、そうめんの専門店もやったそう。コシがあってむちゃむちゃ旨い、とのこと。「そうめん専門店は4年ほどやったかな。そらぁ、従業員が辞めるいうんやから、辞めざるをえぇへんでしょ」。
あっちにいったり、こっちにいったり。しかし、どこかで、森本氏に助けをもとめてくる人がいる。「クラブの後輩とかもいっぱいいますしね。リクルート時代に知り合ったお客さんとも仲良くさせてもらっていましたし。そうそう、ホームページの作成なんかもしてたかな。ただ、だんだんそういうビジネスが、実体のないもんのように映りだすんです。口だけでうまいこというてね。50歳でニートを辞めるんですが、そのきっかけはやっぱり、実体があるビジネスをしたくなったからやと思うんです」。
それが今の豆乳ですか?
「そう。豆ですね。これに今は魅了されてます」。

・・・続き

株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏氏

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2022年3月1日火曜日

2月25日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は“ごちたく”『味の民芸フードサービス』様を取り上げました。

2月25日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は 麺が「のびる・冷める」問題解決、実店舗と両輪へ!! “ごちたく『味の民芸フードサービス』様を取り上げました。

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2月18日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は “肉汁餃子のダンダダン”の『ナッティースワンキー 』様を取り上げました。

2月18日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は AI需要予測型自動発注クラウドサービス「HANZO」導入された“肉汁餃子のダンダダン”の『ナッティースワンキー 』様を取り上げました。


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焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏登場。

本文より~

岩崎家の食卓。

その昔、鉛筆にかぶせるアルミ製のキャップがあった。尖った鉛筆に蓋をするのが主な役割だが、もう一つの使い道のほうが子どもたちには人気があった。ロケットだ。
「そうそう、ぼくと下の弟はよくつるんでいてね。爆竹から火薬を抜いて、あのキャップに詰めて。火をつけたらシューってロケットのように。ただ、ある時、兄貴に言われて火薬をつめすぎたんか、爆発してもうて」。
今回、ご登場いただくのは焼肉岩崎塾の代表取締役会長、岩崎幹永氏。生まれは1945年。終戦の年に生まれている。
兄弟は5人で岩崎氏は4男。兄弟は全員、名を成しているが、とくに三男は国から勲章までもらっている。その昔、「火薬をもっと詰めろ」といった兄貴である。
「私らのルーツは韓国です。父と母が来日します。当時は日本も、韓国もなかったんですが、岩崎家は在日韓国人となります。父親は繊維もやったし、プラスチックの射出成型の会社も経営していました。当時の松下電器やサンヨーの孫請けの仕事をしていました。お手伝いさんもいましたから、裕福だったと思います」。
焼肉の話もでた。「兄弟は男ばっかりの5人です。そりゃ、取り合い。はよ食べなあかんから、ちゃんと焼いてたべたことがありませんね笑」。
牛肉の争奪戦が目に浮かぶ。当時、牛肉は高根の花。食卓にのぼること自体、裕福さの表れだ。
いいものを食べていたからではないだろうが、兄弟は基本、からだがでかい。いちばんは岩崎氏だった。小学校の頃は大阪でいちばんのスピードランナーだったそう。
勉強は社会と英語が得意。勉強は中のちょい下だそうだが、IQテストは1位。IQ138というから、数パーセントのエリート。ただ、本人に偉ぶる様子はない。
「まぁ、やんちゃでしたわ。でもね、喧嘩はやらんし、拳で勝負ってタイプやない。当時の目標ですか? そういうんはあまりあらへんかった。ただ、兄貴たちもそうですが、憧れの人はいましたね」。
岩崎氏にとって、兄弟は自慢の存在。兄弟たちの話になると、饒舌になられる。子どもの頃の賑やかな食卓が、今もつづいているようだ。

梅田の、どぶ池ストリート。

いまや大都市の梅田界隈であるが、岩崎氏が子どもの頃は、どうだったんだろう。
「そうですね。今の関テレのところにはグランドがあってね。ぼくも、そこで野球をしていました。雨が降った翌日はグランドコンディションがぐちゃぐちゃ。ゴロ打ったらセーフです笑」
「ぼくね、高校は中退しているんです。たばこと喧嘩が原因です。ただ、ぼくはどっちかというたら、喧嘩をやめるようにいいに行ったんです。でも、いちばんでかいし、『あいつだろう、首謀者は』みたいになって」。
高校を中退されてから、どうされたんですか?
「親父の会社で仕事をしました。プラスチックの会社です。ただ、4年くらい経った頃かな、テレビでカレッジフットボールを観て、やりたくなってね。それで、高校に入り直しました。それから、神戸学院に進みます。フットボールはできたんですが25歳のときに辞めました。結婚したんです」。
岩崎氏の足跡は、トレースするだけで忙しい。
「クルマも好きだったですね。大学にはアメフトだけのために行っていたんですが、梅田から神戸の大学まで真っ赤なスポーツカーで通っていました」。
6メートルもあるキャデラックを乗り回す。2ドアのロールスのハンドルもにぎった。「ベンツも三台。キャデラックは4台乗ったけど、あれには誰も近づいてこんかった」と笑う。 そりゃそうだろう。アメ車、全盛期。日本車と比較すれば、排気量だって、大ちがい。
「そのぶん仕事はしました。父親の会社を辞めて、独立したのは35歳の時です。昔は、梅田にも丼池(どぶ池)通りっていうのがあってね。そうやね。丸ビルのちょうど向かい側にあった70メートルくらいのストリート。その通りに親父が土地をもっていて、それを譲ってくれたんです。『なんかやれや』いうて」。

店名は、ホルモン焼き食堂 イワサキ。

「そう言われたかって、やりたいもんはあらへん。ただ、なんかやらんと生活できへんし。その時、銀行さんからアドバイスしてもらうんです。それで、私の人生が決まったようなもんですわ。なんもわからんから、とにかくでっかい冷凍庫を買ってね。肉の卸をはじめます」。
「ただ、当時のことでしょ。お客さんはついたんですが、商品のホルモンがいつ入るかわからへん。相手さんに聞いても『そのうち』ですから、どうしようもない」。
「それで、直接働きにでたんです。朝早くから出かけていって、うちに肉をわけてくれるっていう会社の牛をひっぱってくるんです。ひっぱってくるいうても一頭500キロはありますからね。いくら私でも、はさまれたら大変です。片手にやすりをもってね。そっちやない、こっちやって誘導するんです。それでわけてもらったホルモンを卸すようになり、軌道にのります」。
儲かりましたか?
「儲かったんは、儲かったんですが、タンとか、レバーとか、センマイ以外の、シンゾウやミノがあかん。それだけでも、相当なトン数になりますから、もったいないでしょ。それで平成7年にホルモン焼きの店をスタートします。これがむちゃくちゃヒットして。今まで売れへんかったミノやシンゾウも食べてもらえます。もう言うことありません。ただ、ヒットしすぎて、私が仕入れた分だけでは、おっつかなくなっていくんですが」。
これが、焼肉岩崎塾の始まり。店名はホルモン焼き食堂「イワサキ」。
「ぜんぶセルフです。ビールも冷蔵庫からお客さんが出して」。
広い店内でポンポンとビールの栓が開く音がする。
「1日300本は開いていましたから、アサヒビールの人も腰抜かしたはりました」。
濛々と立ち上る煙。その煙の向こうに岩崎氏はなにをみていたんだろうか。

・・・続き
焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏

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