2012年3月26日月曜日

2012年3月23日金曜日

こんな感じの花の札作成してもらいました!!

どうせなら、インパクトを・・・と考え、


生花や観葉植物をお贈りする際の札を


キイストンオリジナルで作成してもらいました。


これなら目立つよな。


花ロゴ


こんなことやってくれるのはグリーンロードだけかな?!



2012年3月22日木曜日

NHKにあの「カナユニ」の横田さんが・・・。

たまたまNHKを見てたら、なんとあの「カナユニ」様が・・・。


カナユニ


カナユニ2 カナユニ3


テレビ見ていたが、さすが有名人・政財界が来るお店だけあって最高級のお店である。


弊社の社員のお父さんが総料理長であり、大変お世話になっている。



2012年3月20日火曜日

無事、7回忌終える。

7回忌
今日は母親の命日。


もう6年経った。


ほんと早いものだ。


もう安心して天国に行ったに違いない。



2012年3月19日月曜日

株式会社聘珍樓 代表取締役 林康弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社聘珍樓 代表取締役 林康弘氏登場。


林
本文より~


父、危篤の一報でアメリカ永住断念。そして、父から解雇される。


林氏は、小・中・高を「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」で過ごしている。「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」は2000年に廃校になっているが、明治43年に設立された英語教育主体のインターナショナルスクールである。大学は上智大学に進んだが、学生運動が激しく授業も困難となったため、1年後、日本を飛び出しカリフォルニア大学に編入。大学2年生からアメリカで暮らしている。林20歳。1969年のことである。
林氏は、当時のアメリカの様子を次のように語っている。
「アメリカ時代は、私にとっても一番楽しい時代だった。当時は、イージーライダーが封切されて、主演のピーターフォンダがカッコ良かった。自由の国アメリカの象徴でしたから」。ハイウエイを突っ走って、カナダまでかけたこともある。学費はバイトで賄った。「父は元々、米国留学にはあまり賛成してくれなかったので、4年間を通して、3000ドルしか出してくれなかった(笑)」。勉強ももちろんした。経営学を専攻して卒業、大学院に入りかけた時、父、危篤の一報が入った。「アメリカで暮らそうと思っていた矢先、父が危篤。急遽帰国しましたところ、幸いにも回復しました。その時だった、父から聘珍樓に入るよう言われたのは。アメリカ永住は、これにて断念(笑)」。
「しかしながら、当時は私も若く、父の下で、小さな飲食店で働いて生きて行く気にはなれず、苦労してアメリカで勉強してきたものを何も生かせないような気がして、なんでこんな仕事をと、反発しました。やる気がないからダラダラして、2回遅刻して、抜け出してパチンコしているのをみつかって、クビになりました(笑)」。 
「家も出ることになり、取り敢えずはサラリーマンに。あるエレクトロニクス商社に入社しました。その当時、日本ではまだ半導体をつくれる技術がなかった。だからシリコンバレーの会社と合弁会社をつくっていました。暫くしてその会社をいったん辞めて、今度はソニーに中途入社。でも、入社早々に、フランス支社への配属の辞令が出たものですから、転職を考え、その後外資系の男性化粧品会社でマーケティングの仕事に就きました」。
6代目社長である、父、達雄氏から、林氏が「聘珍樓」の事業を継承するのは、すでに書いたが1975年のことである。「結局、サラリーマンを3年続けましたが、ここで聘珍樓7代目に。父の要請でした。店をどのようにしようと全て任せた、と。この時を境に改心し、この時が、私にとっての聘珍樓のホントの意味でのスタートだと思います」。・・・・。


株式会社聘珍樓 代表取締役 林康弘氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)


ファーストキッチン株式会社 代表取締役社長 齋藤俊光氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にファーストキッチン株式会社 代表取締役社長 齋藤俊光氏登場。


齋藤
本文より~


大阪大学少林寺拳法部、18代世代の、革命。


高校生活の終わりには、大学受験という難関が待っている。進学校だから尚更かもしれない。
「英語と国語が苦手だったんですが、志望は文系です。数学だけで突破してやろうと大阪大学を受験しましたが、数学の点数が数点足らず、失敗。翌年、リベンジしました」。
大学では、少林寺拳法部に入った。齋藤の足跡をたどると、凡人にはなかなか歩めない道が続いているように思える。頭もよく、好奇心も旺盛、スポーツも万能。だが、もう一つ、これが、齋藤の歩みを魅力的なものにした気がするのだが、行動力に長け、人を引き付ける才能に富んでいたことだ。大学の部活動で、その才を発揮する。
「まったく話にならない部だったんです。弱くってもいいやって感じでした。大会では予選落ちと決まっていました。でも、私は、やるからには強くなりたかった。勝ちたかった。だから、動いたんです」。
のちにOB会でも一目置かれる、18代、齋藤世代の始まりだ。
「私とおなじように熱いやつらをあつめて練習方法も練り直し、最終的には新たな指導者を迎え入れることまでやりました。その結果、私たちの代では無理でしたが、2年下の後輩たちが関西の大会で初優勝。その後も連勝が続きます」。
高校時代のレコード記録。それだけみれば齋藤本人の才によるところが大きい。ところが、こちらの話は、齋藤という人の「人格のちから」がクローズアップされている気がする。ちなみに大阪大学のホームページで調べてみたところ、いまもさまざまな大会で優勝を遂げていることがわかった。・・・。


ファーストキッチン株式会社 代表取締役社長 齋藤俊光氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)


2012年3月16日金曜日

南国酒家様の記事が「夕刊フジ」に・・・。

若者はあまり購入しないサラリーマンの娯楽紙でもある夕刊フジを買って見てたら、なんと“南国酒家”の宮田社長の記事が・・・。


南国左 南国右


創業51年目の今年、なにか新しい動きがありそうな予感!!