in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏登場。
少年、西川洋右くん。
唐突だが、忍者の里は2つある。甲賀と伊賀だ。今回、ご登場いただいた野村興業3代目の西川洋右さんは、後者の伊賀。ただしくは三重県名張市に生まれている。
名張市は近鉄電車で大阪にも1時間。忍者の里は意外にアクセスが良好。西川さんによれば、奈良県までは歩いて行ける距離だそう。ウィキペディアで調べてみると「大阪のベッドタウン」とあった。
実際、西川さんも生まれは大阪。小さな頃に名張市に移った。お父様は大阪の八尾市にあるシャープに勤務されていたという。
電車で1本。1時間程度なら十分、通勤圏内。西川さんは3人きょうだいの末っ子。兄と姉がいる。
子どもたちにとって、自然豊かな忍者の里は楽しさに満ちていたに違いないと思っていたが、西川さんの話をきくと、イメージはだいぶ違った。
「とにかく引っ込み思案だった」と西川さん。
なんでも、やさしい兄に寝かしつけられ、姉のあとにくっついて歩く少年だったそう。
どんな少年だったのか、もう少し話をきいてみた。
「小学校では剣道を習っていました。母が坂本龍馬好きだったんです。特技はなく、これといったエピソードもありません。ただ、そうですね。掛け算をマスターするのがクラスでいちばん早かったくらいかな。あ、そう、それに演劇で、ウケた。これで、ちょっと自信がついたかな」。
<それも、小学生時代の話ですか?>
「そう。中学は卓球部。最初はまじめだったんですが、先輩とゴタゴタしているうちに、だんだん距離を置くようになりました(笑)」。
高校でも西川さんは、そのまま。兄姉とおなじ高校に進学し、おなじようにテニス部に入部している。
「高校まで、私自身の意思で何かをした記憶はありません。すべて流れに従って生きていたような」。
ただ一つ、小さなエピソードがあった。
「ある日、好きな子に告白したんです」と西川さん。
<どうなりました?>と聞くと、西川さんは、照れ笑いする。
初めての彼女。2人の初々しく、微笑ましい様子が頭に浮かんだ。
カナダへの留学と、西川青年と。
「天理教ではなかった」と断ったうえで、「天理大学に進学した」と西川さん。なんでも進学する頃、仏教に興味があったそうだ。天理大学は西川さんが歩いていけるくらいと言った奈良県にある。
「奈良はすぐですが、大学までは車で1時間くらい」と西川さん。
高校を卒業して、きょうだいは別々の道を進む。
「兄は福祉系の専門学校へ。姉は京都の芸大へ。そして私はちかくの、天理大学。やっぱり冒険心がないのかな(笑)」。
<でもこのあと、カナダへ。大胆な冒険のはじまりですね?>
「そうですね。2年の春に1ヵ月、短期留学します。高校からいっしょで、当時から憧れていた先輩がカナダに留学して、彼女から土産話を聞いているうちに行ってみたくなったんです」。
もちろん、簡単に行ける距離じゃない。世界地図でみると、かなり遠い。西川さんが留学したという「レジャイナ大学」は、中西部サスカチュワン州の州都レジャイナにあった。
西川さんによると、「ロッキー山脈から吹き下ろしがあり、マイナス40度になる」そうだ。
そのカナダでの話。
「カナダには1ヵ月、ホームステイをして。じつは、帰国して1年、バイトをしまくって、150万円ためて、1年休学して、今度は1年間、おなじレジャイナ大学に留学します」。
短期留学のときとは異なり、ともだちもできる。「韓国人の彼女もできた」と西川さん。その彼女とおなじシェアハウスに住んでいた青年が、つぎの運命をひらくことになる。
「彼がね、思いがけない話をもってくるんです」。
<どんな話ですか?>
「『ケニアに行かないか?』って(笑)」。
キリンとライオンと、ナイロビの4年間。
<ケニア?> 話をきいて、ふたたび世界地図を広げた。なんでも、内定を辞退し、大学卒業と同時にケニアに渡ったそうだ。
「彼の父親がケニアのナイロビを中心に活動するNPO法人の代表だったんです」。
法人の活動は、「微生物をつかって、スラム街を、」うんぬんというむずかしい話だった。
「日本での就職を辞め、ケニアに渡ったのは、私自身のアイデンティティが『海外』にあると思ったからなんです」。
しかし、今度も、遠い。
ナイロビは、アフリカ大陸の中央にある。赤道近くだが、「標高が高く、日本でいうと軽井沢のよう」と西川さん。クリスマスになると、欧米人が保養のためやってくるそうだ。
「もともとイギリス植民地でした。だから、ヨーロッパ建築の建物が少なくありません。市内には、有名なナイロビ国立公園があって、キリンやライオンが住んでいます」。
「飼われている」ではなく、「住んでいる」という言葉で、広くはてしないサファリと、そのなかで暮らす動物たちの様子が浮かんでくる。
ちなみに、ウィキペディアによると、ナイロビは、マサイ語で「冷たい水の場所」という意味らしい。むろん、ケニアの経済の中心地でもある。だが、中心部でも、治安はいいわけではない。むしろ、その逆。
「私も、何度か財布をすられて、そう、空き巣にも2回入られました。でもね。部屋に取るものなんてない。暮らしては行けましたが、給料だって5万円でしたからね」。
何もなかったからだろう。
「空き巣が取っていったのは、冷蔵庫にあるバナナだけだった」と、こちらを笑わせてくれる。
結局、西川さんは、このケニアには4年いることになる。その間、1人の日本人女性と知り合っている。その女性が今の奥様。奥様もおなじNPO法人で勤務されていたらしい。
ケニアで日本人の男女が出会う。奇跡的な出会いだが、ぎゃくにいうと、だから仲が急速に深まったのではないだろうか。
「彼女は私より1年早く帰国するんですが、最初は『ケニアでいっしょに暮らそう』と話していたんです。ただ、NPOの団体内部がゴタゴタして、彼女との間でも色々あって、私もケニアを離れて、帰国しました」。
帰国した西川さんは、日本の設計関連の会社に就職する。
<4年ぶりの日本はどうでしたか?>
「ぜんぜんちがいますよね。ケニアの道は、舗装もされていない赤土でしょ。治安もまったくちがう。向こうはさすがに怖かったです。ただ、周りには世界中の人がいて、私も世界のなかの1人でした」。
「自分の肌の色を忘れた」と西川さん。
「でも、日本にもどると、やはり、日本人ということを意識せざるをえなくなった気がします」。
貴重な経験は、カバンにしまい、就職したのは、海外とは縁のない会社だった。
「向こうで頑張ってきたと思っていたんですが、時間軸とか色々と違うところがあったからでしょうか」。
「なかなか思うように結果がでなかった」という。
「そういうときにお義父さんから、『一度、真剣に考えてくれないか』って、声をかけていただくんです」。
<跡取りの話ですね?>
「そうです。妻は5人姉妹の長女でしたから。つよく勧められたわけではいですが、お店をたたみたくないという義父の思いが伝わってきました」。
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