2025年7月29日火曜日

株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏登場。

本文より~

ユーモアいっぱいの剣道少年。

無口で職人気質の電気技術者である父と、明るく社交的な美容師の母の第二子として生まれた島田氏。幼少期は明るくユーモアがあり、友人も多かった。
小学校前半で野球に熱中するも、4年生の時剣道に転向。中学でも剣道を続け初段を取得した。しかし、その後進学した帝京八王子高校には剣道部がなく、他に打ち込むものも見つからなかったため帰宅部に。
「厳しい学校でアルバイトは禁止だったんですが、通学に片道1時間かかる距離を逆手に取り、地元の馬車道グループでこっそりバイトしていました」。
と当時を振り返る。

“一国一城の主”を夢見た学生時代。

高校卒業後、帝京大学に入学。「18歳の時には、一国一城の主になりたいと思っていた」と語る通り、大学の授業は必要最低限にとどめ、バーテンダーを目指し、羽村市小作台で「Kitchen Bar麦」や「おかず屋でん」を経営していた有限会社麦企画にアルバイトとして入社。学生時代の4年間を麦企画で過ごした。
就職活動はせず、卒業後はワーキング・ホリデーを選択し、単身オーストラリアへ。ゴールドコーストのマリンスポーツ会社で1年間働いたものの、「自分探しのつもりだったんですけど……結局、何も見つかりませんでしたね」と苦笑い。帰国後は再び麦企画の門を叩き、正社員として勤務することになった。
「麦企画では飲食店の楽しさを覚えました。FL管理なども学んだのもその頃です」。
と謙遜するが、2002年9月の立川店オープン以降、勢いに乗っていた麦企画での経験はかけがえのないものだったと語っている。後に妻となる女性と出会ったのも、この麦企画時代だった。

“夢見るフリーター”が掴んだ転機。

27歳で独立を決意した島田氏は、麦企画を退社。父親と同じ電気工事の仕事に就きながら、独立準備を進めていた。
そんなある日、地元で居酒屋を営む知人から異業種交流会に誘われる。
「その人に『会費、5000円な』って言われたんですけど、当時ぜんぜん金がなくて。奥さんに『この日だけはどうしても』ってもらった5000円を握りしめて、その異業種交流会に参加したんです」。
異業種交流会といえば名刺交換。島田氏が用意したのは、肩書きに「夢見るフリーター」と記した自作の名刺だった。
この一文に強く反応したのが、ラーメン業界で名を馳せる五ノ神製作所の伊藤社長だ。
「“夢見るフリーター”か。君、面白いね」。
という伊藤社長の言葉に対し、島田氏は、「今は“夢見てるだけの”フリーターですけど、いつか店を出します」と、ユーモアたっぷりに切り返した。
機転の利いた会話術は、子どものころから変わっていないようだ。
「伊藤さんに、『これからどんな店をやりたいの?』って聞かれて、手打ちうどん居酒屋の話をしたんです。そしたら『うどんの売り方はわからないけど、ラーメン作りなら教えてあげれるよ?』って誘ってくれて」。
麦企画で居酒屋の経験があり、地元には「武蔵のうどん」というご当地うどんがあったこと、さらに若者のアルコール離れを考慮し、「昼は手打ちうどん、夜は居酒屋」というスタイルを考えていた島田氏にとって、ここで初めて「ラーメン」という選択肢が浮上する。
「『独立したいと思ってます。それでもいいですか?』って聞いたら、『いいよ』って。それで翌日に電気工事の仕事を辞めて、その次の日には五ノ神製作所に入社しました」。
電光石火の決断が、彼の人生を大きく変えることになった。

“自分の味”で勝負。

「本当は5年くらい修行するつもりだったんですけど、妻が信じている風水の先生に『今が絶好のチャンス。この機を逃すと(この先)10年は独立しないほうがいい』って言われて、勢いで独立を決めました」。
伊藤社長に独立の旨を伝えると、「お前、そんなんで独立するのかよ」と呆れつつも、「じゃあ、何ラーメンをやるんだ?」と問いかけられた。
「え?僕は何ラーメンを作るんだっけ?」。
独立したい気持ちばかりが先走り、何を作るか考えていなかったという島田氏。仕事の帰りにコンビニに寄り、カップラーメンコーナーをじっと眺めていると、ある事に気づいた。
「売り場の3分の1を、某大手企業のカップ麺が占めてたんですよ。で、“愛され続けて30年”ってキャッチフレーズを見て、『よっしゃ、この味なら30年は大丈夫だ!』って思って、チリ・トマトヌードルと、シーフードヌードルとカレーヌードルでいこうって決めたんです」。
さっそく、「3つ揃って、カッパヌードルでいきます」と伊藤社長に報告。それを聞いた社長は、心底感心したように「お前、成功するわ」とつぶやいた。
肝心の物件探しは難航した。やっと見つけたのは、横並び3軒の真ん中で、その3軒とも4~5年間空室という 、いわゆる“死に物件”。唯一のメリットは、広さ14坪で家賃9万円、駐車場5台分を借りて合計12万円と格安なことくらいだった。
「こういう店を嫌う人は多いけど、僕は嫌な感じしなかったですね」。
この実用的な判断力もまた、島田氏の強みだろう。
開業資金は、信用金庫からの借入金600万円に自己資金を加えた800万円。居抜き物件だったこともあり、改装費は可能な限り抑えた。風水の先生から「入口に龍の絵、反対側には虎の絵、盛り塩も」とアドバイスを受け、邪気払いも怠らなかった。
2012年3月24日、米軍基地の町・福生市に「カッパヌードル」をオープン。伊藤社長の支援や、モジャモジャ時代のファンの口コミが功を奏し、初月から200万円を売り上げた。
天下の〇ップヌードルをパロディにした店はすぐさま話題となり、テレビ出演の依頼も舞い込んだ。これで一躍ブレイクかと思いきや、突然、屋号や商品名の変更を余儀なくされる。俗にいう、“大人の事情”というヤツである。
落ち込んでいても仕方がないと、「カッパ64」として再スタート。チリ・トマトヌードルも「トマトラーメン」に変更した。ちなみに店名の「64」は、九九の「八八(はっぱ)64」とカッパを掛けたものらしい。
「JRのポイントカードをパロディにしたポイントカードも作りましたけど、こっちは何も言われてません(笑)。やっぱり、お店を出すときは、どれだけ口コミされる要素を持てるかが勝負だと思うので、ユーモアは大事にしてました」。
このセンス、さすがとしか言いようがない。

・・・続き

株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

2025年7月28日月曜日

常に心がワクワクする仕事心掛けてます。

ここ数年で飲食店とアニメやゲームのコラボがとても多くなりました。
それだけ効果がいいんでしょうね。

キイストンも複数のコラボにも関わってますが、飲食店舗を活用した、もっと心が躍るワクワクするイベントなどもやってみたいな・・・と。

「飲食の戦士たち」のおかげで、キイストンも業界内での認知が出てきて仕事になっております。
少しでも飲食業界に恩返しができれば・・・。

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2025年7月25日金曜日

7月23日、25日と金井智秀氏、Yahoo!ニュースに2掲載されました!!

スシローのグループ会社の杉玉の立ち上げから社長経験もされた株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏、Yahoo!ニュースにも掲載!!

さる4月25日、オランダ第2の都市、ロッテルダム(人口約65万人)に日本食レストランがオープンした。店名は「MUSUBU結」。店舗規模は30坪・50席、フードメニューはとんかつ、すし、もつ煮、肉じゃが、等々、全部で約70品目、日本の大衆的な定番はほとんどそろっている。客単価は昼が25ユーロ(3500円から4000円あたり)、夜は50ユーロ(8000円あたり)。夜の50ユーロとは、日本で食事をする感覚では3500円あたりに相当するという。要するに、日本の大衆的な居酒屋である。・・・(前編)

Yahoo!ニュース前編


このお話は、飲食業の経営者やコンサルタントとして活動してきた人物「金井智秀」氏が、50歳を期にしてオランダで飲食業をスタートさせたというもの。ここのポイントは、「なぜ、オランダなのか?」「これから、どのようなことを考えているのか?」ということだ。
・・・(後編)

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2025年7月23日水曜日

ホイッスル三好様の「揚州商人」、スゴいプレミアム会員誕生!!(Yahoo!ニュースより)

Yahoo!ニュースより。

「月額費300円で、1回の食事が1560円お得になる」会員制度をつくったラーメン店「揚州商人」


「月額費300円で、1回の食事が1560円お得になる」――このような会員制度を、7月16日より行っているのが、“中国ラーメン”を標榜する「揚州商人」である(経営/株式会社ホイッスル三好、本社/東京都杉並区、代表/三好一太朗)。この内容について、一例を挙げると、「杏仁豆腐:無料(通常価格510円)」+「生ビール2杯:300円×2(同670円×2」+「パーコー:310円(同620円)」となっている。このサービスは、同社が2021年8月より導入している会員制度「プレミアム会員」の更新版である。
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2025年7月22日火曜日

スシローのグループ会社の杉玉の立ち上げから社長経験もされた株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” スシローのグループ会社の杉玉の立ち上げから社長経験もされた株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏登場。

本文より~

金井、少年の話。

「瀬戸内海の小波しか知らんやつらに、ハワイの大きな波を知ってほしいんじゃ」。
波に向かって、お父様は、そうつぶやいた。
この一言はハワイで行われるヨットレースに色々なメンバーを載せて苦戦が続き、「これだけ大金をかけて、なぜ負けるレースをするのか」とお母様に詰問された時のお父様の回答。当時、お父様は西日本ヨット協会の会長だったそう。
今回、ご登場いただいた株式会社GRACIASの代表、金井智秀さんは1974年、広島で生まれる、お父様はパチンコ店などのアミューズメントパークやタクシー会社を経営。事業のかたわら、上記の通り、法政大学ヨット部でキャプテンを務め、西日本ヨット協会の会長も務められていたそうである。
もう一つ、「祖父も、父も、広島の暴力団追放の会の会長だった」と金井さん。「うちの会社のパチンコ店に銃弾を打ち込まれたこともある」というからおだやかではない。
「祖父が釜山から日本に渡ってきます。これが我が家のルーツです。祖父は広島の朝銀の理事長も務めていたそうです。父もそうですが、2人とも周囲からの人望が厚かったそうです」。
言葉の端々から、お祖父様やお父様を尊敬している金井さんの様子が読み取れる。ただし、祖父も、お父様も金井さんがそれぞれ13歳、17歳のときになくなっている。
「私は、中学から千葉県の暁星国際に入学し、寮生活を送っています」。サッカーが上手く、ブラジル留学に行ったと聞いていたから、サッカー推薦かと思っていたが、これが、金井家の教育方針だったよう。
「兄も姉も、全寮制の学校に進んでします」。お姉さんに至っては、歩いていける学校で、寮生活を送っていたそうだ。
「中学でも、もちろんサッカー部」という金井さんに、<ところで、千葉でしょ。広島弁は?>と聞くと、「そうなんです。だから、最初のあだなはヤクザでした」と爆笑する。
温厚な顔つきだが、怒らせれば怖い。方言だけではなく、威圧感があったにちがいない。
「暁星国際は、中高一貫校です。私は、サッカー部では1年からレギュラーでした」。さすが、ブラジルに留学するだけある。「最初はフォワードだったんですが、だんだん試合を支配するミッドフィルダーになっていきます」。
この話を聞いて、今の金井さんのルーツがわかった気がした。
「一方、寮生活でも室長や、寮長も務めます。生徒会でも、体育委員を6年間、体育祭の実行委員長も務めました」。
<すごいですね?>というと「サッカーはともかく、寮長になったのは、『毒をもって毒を制すためだ』って、先生らに言われてました」と笑う。
おおよそ、ここまでが金井さんが、子どもだった頃の話。
ちなみに、金井さんによると、「父が他界してからは、相続争いもあって、父の会社は事業縮小し、かなり前になくなっている」とのことである。

日本LCAへ。冒険の始まり。

金井さんの最終学歴は、武蔵大学、経済学部金融学科中退となるか、千葉県私立暁星国際高等学校卒となるか。
「高校を卒業し、2年浪人して武蔵大学に進むんですが、カプリチョーザでバイトにはまって2年生の途中で辞めてしまいます。なので学歴は高卒になってします。1996年ですから、22歳のときですね。母方の叔父が経営する株式会社コリーヌに就職して、 サンマルク高知知寄店の店長に就任します」。
金井さんからいただいたプロフィールによれば、「サンマルク全国100店舗の『顧客満足度アンケート評価』で全国一位を獲得」とある。
大学中退、高卒、いずれにしても、サンマルク店長が、金井さんの経歴の始まりとなる。
簡単にご紹介する。
1996年:株式会社コリーヌ入社
1999年:日本LCA入社
1999年:株式会社イデア・リンク設立・取締役就任
2004年:同社の代表取締役専務に就任(翌年 代表取締役社長)/株式上場(IPO)を目指し事業計画策定、企業運営に従事する。
<日本LCAに入社した理由は?>と聞いてみた。
「縁があったのはたしかですね。じつは当時、付き合っていた彼女が、勝手に色々な会社に履歴書を送ったんです。僕は学歴がないからどこも入れないと思っていた」と笑う。日本LCA以外にも送っていたそうだが、縁があって、日本LCAに入社することになったのだという。
日本LCAは、当時、東証二部上場のコンサルティング会社である。ベンチャー・リンクは関連会社で、サンマルクを通し、縁があった。叔父さんの会社、コリーヌは、顧客の1社でもあったそう。
「入社すると、高卒は私だけ。アウェイです。私以外は、早慶、関関同立が当たり前、東大生、京大生もいましたからね」。そもそも、彼女が送った一通の履歴書がはじまり。そこからして、ユニークだ。
「学歴はなかったですが、私はサンマルクで現場の実践経験を積んでいます。だから、実践力はちがいます」。
日本LCAに入社した金井さんは、フランチャイズ支援事業部に配属され、フランチャイズ本部の展開支援を行っていく。
「じつは、サンマルクで店舗の経験を積んだあと、ある会社で、物件開発の営業職も経験していたんです。だから、残すは経営だと。日本LCAに入社したのは、経営を学ぶという意図もあったんです」。
実践レベルから、経営をみることができる金井さんは評価され、入社して半年で、株式会社イデア・リンク(現イデア・プラス)設立とともに、取締役に就任する。
「朝礼で人事が発表されるんですが、私もぜんぜん知らなくて。私ともう一人が抜擢されたんですが。もう一人は若手のエースでしたから、みんなそうだよな、ってなって。でも、『もう一人のあいつはだれだ?』って(笑)」。

社長、就任。

社内でも、ノーマークだった青年が、4年後、代表権をもち、その翌年には社長に就任。IPOに向け、爆走する。
「その原動力になったのが、『銀のさら』です。5年で上場と決めていましたので、そのためにはセールスが60億円で、事業の平均利益率は11%で7億円。新店の開業費やその他の経費を引いても上場できる業績になります。父の会社の衰退をみていたからでしょうね。資金繰りはネガティブに考えるタイプなんです。だから、慎重に数字を組み立てます」。
資金繰りにはネガティブだったが、事業はポジティブに動かしていく。「銀のさら」については、金井さんより、むしろ親会社の日本LCAが展開に慎重だった。半年で24店舗を出店する計画を作成したからだ。だが、金井さんは社内の慎重論まで押し切り進めていく。
「銀のさら」をスタートさせたことで、すべてが一気にふくれあがる。
「店舗数もそうですし、社員も20人からいっきに100名です。しかも、最初はまったくうまく業績が立ち上がりません。大流血です。さすがに会長からも、『もう出店はするな』と」。
<いま振り返っていちばんつらいときは>と聞くと金井さんは、この時の話を挙げる。
「銀のさらの本部からもすぐには利益があがらないと聞いていたんですが。それでも当時、宅配すしってブルーオーシャンだったんです。だから、アクセルをふんだんですが」。
2ヵ月経っても、3ヵ月経っても業績は上向かない。途方に暮れる。判断が間違っていたのか。「でもね。4ヵ月目になって、あれ?って。はじめて黒字化するんです」。
なんで、なぜ? コンサルだけあって、偶然では片付けない。
「すると、一定の法則がみえてきたんです。具体的には、ある一定の顧客数になると、黒字化するという法則です。もちろん、お客様のセグメントなど、多少、異なるファクターはあるんですが、4ヵ月かけ、ある程度の認知を獲得できたから黒字化したと仮定してみたんです」
「だったらね」と金井さんはニヤリと笑う。
金井さんはさらに大胆な戦略を立て、果敢に打って出る。
「本部の制御を振り切って、オープンと同時に半額キャンペーンをはじめます。最初、『全品半額』ってやったもんだから大パニックになっちゃって(笑)。ただ、認知度はオープンと同時にアップして。このあと開店する店は半額は3品に絞るんですが、それでもめちゃめちゃ売れて、初月から利益がでるようになります。それ以外にも思わぬ副産物ですが、メニューを絞って沢山売れた事がスタッフのいいトレーニングになったんです」。
この金井さん流の戦略が大ヒットし、予定通り半年で24店舗も「銀のさら」をオープン。そのあとも出店を継続した。オープンすると、とたんに黒字化するから会社の利益もアップする。またFC本部ではなく、イデア・リンク単体で関西限定ながらTVCMも放映した。「放映料が5000万円。さすがに慎重な意見もありましたが、私達のシミュレーションでは、十分採算がとれると判断。電通さんといっしょにしかけます」。
子どもが100点とったり、サッカーでゴールを決めたりした、ちょっといい日に「銀のさら」、というシンプルな広告。これがまた功を奏す。
「結構順調で、私のミッションだったIPOまで、あと一歩だったんです」。
<だった?>
「そう、親会社の業績が悪くなって」と、金井さん。
「なにが苦しかったかっていうと、社員に上場すると宣言していたもんですから。みんな会社を信じて。持株会もあったし、上場に期待している人もいたんですよ。でも、できない。みんなでめちゃくちゃがんばってきたのに。親会社のせいだなんていえないでしょ。もちろん大きくなれたのも親会社のおかげだし。誰のせいにもできず自身の罪悪感が大きくなりました」。
仕事に集中できず、「会社を抜け出して近所のゲームセンターに逃げ込んだこともある」と、肩を落として笑う。
その昔、お父様が若い選手たちにハワイの大波をみせたように、金井さんも、多くのスタッフに、彼らがみたこともない世界をみせてやりたかったにちがいない。だから、肩を落とす。

スシローで、<鮨居酒屋 杉玉>を開発する。

温厚なタイプだが、怒ると怖い、という印象。そういうことはもう書いた。このとき、金井さんは、なにかに向け、怒っていたにちがいない。その一方で、悔しくて、申し訳なくて、ゲーセンに逃げ込むことしかできなかったんだろう。
話を進めよう。
このあと、金井さんは、イデア・リンクのM&Aを完了させ、代表取締役を退任。株式会社GRACIASを設立して、代表取締役に就任。経営コンサルティング業務をスタートする。
その一方で、コリーヌ、そう、あのサンマルクを運営していた、金井さんのスタート地点でもあるコリーヌにもどっている。今度は、店長ではなかった。スポンサー選定した上でプレパッケージ型の民事再生を実施する。
倒産から救ったという見方もできるが、結果としては反省の多い毎日だった。
この時、生まれた縁もあって、今度は、スシローにこわれて入社している。もう一度、時系列で追いかけてみよう。
2016年:株式会社セントリングス取締役に就任(2022年退任)
2017年、株式会社スシロークリエイティブダイニング 代表取締役に就任。
<「鮨居酒屋 杉玉」を開発されたのは、このときですね?>
「そうです。最初は、コンサルティングから入って、杉玉の事業開発をして、その後に取締役に就任させてもらいました」。
「鮨居酒屋 杉玉」は、回転寿司チェーンの「スシロー」が手がける、大衆寿司居酒屋。酒蔵などで新酒ができたことを知らせるために軒先に吊るされる、スギの葉を集めてボール状にした「杉玉(酒林)」が、ネーミングの由来。
金井さんのセンスがうかがえる。
<ただ、このあと、退任され、スシローを離れていらっしゃいますね?>
「2019年の年末ですね。もちろん、つづけていくという選択肢がありましたし、それがいちばんだった気がします。経済的にも、スケールだって、やれることも沢山るし、やはり企業規模がでかいですからね」。
<そのぶん、できることもでかい?>
「そうです。でもね。これでいいかなって。うまく言語化できないんですが、安定していることで逆に不安になるんです。自分がいなくてもできると思うし」。
約束された年収、未来、それは冒険でもなんでもなかった。
「瀬戸内海の小波じゃ、私も満足できなかったんでしょうね」と、金井さんは笑う。

・・・続き

株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2025年7月17日木曜日

7月14日、フードスタジアムに掲載頂きました。

 フードスタジアムに掲載頂きました。

【内側の人たち】連載1,100回を達成した「飲食の戦士たち」を運営する株式会社キイストン 細見 昇市社長スペシャルインタビュー!

ありがとうございます。
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2025年7月15日火曜日

株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏登場。

本文より~

曽祖父、祖父、父、そして。

日本の敗戦で、日本と中国は戦勝国と敗戦国の関係になった。今回、ご登場いただいたホイッスル三好の2代目社長、三好さんの曽祖父様が事業を起こしたのは、そういう頃だった。
「初代の曽祖父が来日したのは日中戦争の頃です。床屋からスタートして、日本人女性と結婚します」。
曽祖父、祖父、父。初代の曽祖父から数えると、三好さんで4代目となる。だから三好さんは、「ワンエイス(1/8)」だそう。
「曾祖父が日本に来て年月が流れ、生まれたハーフの祖父は、戦後、千住大橋でラーメン『正華』をオープンします。これは太平洋戦争のあとで、中国は戦勝国でしたから、その特権で、小麦がいくらでも手に入ったそうです」。
-------かなり繁盛したそうですね?----
「ええ。のちに浅草の雷門の近くに5階建のビルをつくり、新たに店をオープンします。祖父は事業家で14軒くらいの飲食店をつくったそうです。日本ではじめて会員制のバーをオープンしたとも聞いています」。
飲食だけではなかった。パチンコ店もオープンし、利益は相当、膨らんだ。「鬼怒川にロイヤルホテルがあったんですが、それも祖父の事業の一つでした」。
少し気になって「鬼怒川ロイヤルホテル」を調べてみると、創業は1962年。創業時の名称は「ホテル正華」だった。ラーメン店とおなじ「正華」。ちなみに、「鬼怒川ロイヤルホテル」となったのは1972年のこと。
祖父は、日本に帰化し、松田と名乗った。
「三好というのは、祖母の姓です。私の父は4人兄弟の3男で、大学を卒業して、祖父が経営する中華料理店に就職します」。
ウエイターからスタートしたお父様だったが、半年で専務に昇格。前回、お父様である三好比呂己氏にインタビューさせていただいたときに、お父様は当時のことを次のように振り返られている。
「父(三好比呂己氏にすれば祖父)が事業家で、私といったらお金持ちのボンボンの典型です。父の中華料理店に就職したときも、次期社長くらいに思っていてね。ところが、入社すると『ウエイターからはじめろ』と言われるんです」。
「ウェイター?」、様子がちかうぞ。

父、三好比呂己の話。

「突き放すようなトーンだったもんですから、あのときは、いくらチャランポランな私でもさすがにまずい、と。だから、心を入れ替えて、がむしゃらにはたらきました。そうこうしているうちに、半年が経ち、父に認められたのか、専務に昇格します」。
「しかし、半年、がむしゃらにはたらいてきたでしょ。そう長くつづきません。当時、鬼怒川のホテル(「ホテル正華」のこと)がオープンして、父はそちらにいたもんですから、私を監視する人がいない。そうこうしているうちに、またいい加減な性格が顔を出して。今度は、ぐうたら専務の出来上がり。専務という立場ですから、そりゃ、まずいですね」。
お父様である三好比呂己氏が25歳の頃の話。
「それから3年経った頃に、祖父がからだを悪くして、専務の父が会社を継承するという話になったそうです」。これは、三好さんの言葉。
「で、社長業なんてできないと悩んでいたときに、あの自己啓発プログラムに出会ったそうです」。
三好さんが「あの」というのはアメリカの教育家ポール・J・マイヤーの提唱した教育プログラム「サクセス・モチベーション・インスティチュート」(SMI)のこと。
のちに、お父様の三好比呂己氏は、SMIの代理店をつくり、7年連続、セールス世界1位を獲得されている。こちらについては、お父様にインタビューさせていただいた前回の記事に詳しく描かれている。2億円の遺産をけり、裸一貫で飛び出されたときの様子も含めて。

167人中、165番目。

「ここまでは、私が生まれる前のお話です」と三好さん。
ちなみに、裸一貫でスタートしたお父様は、SMIプログラムの代理店の権利を獲得し、セールスを開始。のちに「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」を設立。
設立2年目から7年間、世界一を獲得。なんでも世界に3000社の代理店があり、1万人のセールスマンがいるなかでの世界一。快挙である。
「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」の設立は1985年とあった。三好さんが生まれる2年前のこと。
それはともかく、ここからは改めて三好さんの話を始める。
「運動できないし、勉強はもっとできない少年だった」と三好さんは笑う。
「中学2年生の頃ですが、この成績ではどの高校にも進学できないと太鼓判を押されたくらいです(笑)」。
-------社長にもそんなときがあったんですね?-----
「長男がボンクラのままじゃいけないってことで、とにかく、次々と習い事をさせられ、塾にも通います。でも、いっこうに成績は上がりません(笑)」。
------なにか別なことに興味があったとか?-----
「ズバリ、そうなんです。うちの父もそうなんですが、とくに叔父がモーター雑誌で有名な『三栄書房』の創業者で、自身もレーサーで大会で優勝もしたこともあって、何よりあのカーオブザイヤーの審査員長でした」。
ポルシェ911にも、BMWにもよく乗せてもらったという。
「そういう叔父の影響をもろに受けて、車に興味をもち、スポーツができないのに、将来、レーサーになると誓っていたんです」。
レースのテレビゲームに熱中。スポーツはかろうじてサッカーはしたが、勉強はまったくしない。
------レーサーとはかっこいいですね?------
「目標はかっこいいんですが、さっきの中学の話でいうと、生徒数が167人で、私はちゃんと学校にも通っていたんですが、165番目でした。中2になった頃、あまりの成績の悪さに、父が激怒して3人の家庭教師をつけられてしまいます」。

猛特訓の結果は?

1日10時間の猛勉強。「猛特訓」といったほうがいいかもしれない。
「父の昔を知ると、チャランポランな性格をちゃんと受け継いだんだなと笑いたくもなりますが、当時も、今もですが、父は私にとっても偉大な存在です」。
------お父様とお祖父様のような関係ですね?------
「かもしれません、私の人生は、すべて父がレールをひき、その上をトロッコ電車のように走るノロマな存在が、私だったんです」。
サーキットをかけるレーサーとは、だいぶ、異なる生き様だった。
もっとも、10時間の猛特訓は伊達ではない。最終的には英語ではトップ校に合格するレベルだったそうだ。
ただし、高校進学は、三好さんが思い描くようなバラ色ではなかった。

高校1年生。親子の盃?

高校に進学したものの、たのしい高校生活とは無縁だった、と三好さん。
------玉川学園高等部に進学されています------
「ボンボン高校です(笑)。合格が決まり、これで父の呪縛からも解放されたと思ったその日のことです。父が、初めて『オレの事業を、継ぐか、継がないか、どっちだ?』っていうんです。そりゃ、少しは、父の事業にも興味があったのは事実です。しかし、レーサーにチャレンジしてもいない。だって、高校1年生ですよ」。
ちなみに、お父様が「継ぐか」といったのは、世界トップを獲得したダイナミックスパースンズ東京ではなく、のちにオープンした「中国ラーメン揚州商人」を経営するホイッスル三好のこと。
------高校1年生、それはまだ決められないですね------
「でしょ。でも父は迫るわけですよ。最初はレーサーが、ぐるぐる頭のなかをかけまわっていたんですが、だんだんと、そうはいえないような気になって。4代目という響きも悪くない」。
「それで、『継ぐ』といったら、父は『そうか』といって、語り始めるんです。なにか特別な、秘伝みたいなもんだろうかと思っていたら、先代、つまり父が『オレも言われて、その通りにしてきた。先代のいうことは絶対、逆らうな』って。先代が、白といえば、カラスも白だって」。
まるで、親分、子分。
最初の指令が親分のお父様から下りる。
------アルバイトの話ですね?-----
「そうです。『継ぐんだったら、じゃあ、アルバイトだ』と。父の相手、つまり私ですが、まだ、高校生ですよ。父親が高校1年の息子に言いますか? でも、もう、父の命令は絶対です」。
マクドナルド下北沢店9ヵ月、サイゼリヤ浜田山店半年、お父様のお店でもある揚州商人9ヵ月、ポポラマーマは4ヵ月、どうとんぼり神座4ヵ月。合計32ヵ月。単純計算でいうと、高校生活36ヵ月のうち、32ヵ月、バイトしたことになる。
「部活もできないし、勉強もできない。高校から、跡継ぎ修行です」。僧侶の修行のような厳格な、精神修行のようなイメージがある。
------印象に残っているバイトはあるか?------と聞くと、マクドナルドと三好さん。なんでも鉄拳がとんできたという。
「ミスを連発していた私も悪かった。でも、胸ぐらをつかまれてね。その日は、泣きながらバイトです。父に恐る恐る辞めてもいいかと聞くと、『いいよ』って軽く言うんです。いいんだって胸をなで下ろすんですが、そのあと、『だがな、いま逃げ出すか、皆から惜しまれて辞めるか、そのちがいは大きいぞ』っていうんです。ピュアな高校生には、その一言が刺さります。『だよな』って」。
改心して高校生は目覚めたようにシフトを入れまくって、ときには学校まで休んだ。ボンクラが、貴重なプレイヤーになるまで、9ヵ月。
「9ヵ月経った頃、数ヵ月前、私を殴った先輩が猫なで声で『これからも頼むわ!』って言うんです。その一言をきいて、『じゃぁ、辞めさせてもらいます』と(笑)」。
恨みがあったわけではなく、目標を駆け抜けたから。
「もともと父から5ヵ所って数字も指定されていたんです。だから、マクドナルドだけにいるわけにはいかない(笑)」。

高校時代の修行が終了。大学に進学すると、深夜のシフトに入れと、指令が下りる。

「2件目は、サイゼリヤと決めていました、マクドナルドともちがって、こちらも衝撃的でした。すべてが、合理的。歩幅から、からだの向きまですべて理論立て、計算し尽くされています」。
感動した、と三好さん。あまりに感動して、毎日、マニュアルを読んだ。
「そういう一つひとつが、頭に残るんです、学校では、教えられない貴重な体験でした。もちろん、まだ2件目、3件目は、父が経営する揚州商人のオープニングに入れと、初めて父から指定されます。経営者の息子っていうのは、シークレットにして、オープンに参加します。店長だけには、父が言っていたようで、だからでしょうね。周りが驚くほどこっぴどく叱りながら育ててくださいました」。
「効率や、合理性でいうと、マクドナルドやサイゼリヤと比較するまでもありません。ただ、父はSMIプログラムの世界一の経営者です。気合と根性と言えばそれまでですが、店全体がモチベーションにあふれて、お客様へのハートは、マニュアルやシステムとはちがう、強烈なパワーをもっていたように思いますね」。
------そのあとも、ポポラマーマと、どうとんぼり神座、こちらもお父様の指示?------
「いえ、揚州商人以外は、すべて私が決めてはたらきました。神座で修行終了かというと、そうではありませんでした。大学に進んでからは、深夜の仕事ができるようになるでしょ。だから、1年間、揚州商人の深夜の現場ではたらきます」。
------勉強きらいで、チャランポランな三好さんはいったい、どこにいったんでしょうね------
「そうですね。なんだかんだと言って、父親が絶対だったからでしょうね。今思うと、きょうだいは私の下に妹と弟がいるんですが、長男の私に、父も母も何かを掛けていた気がします(笑)。大学2年生になると、『もう現場はいい』といって、ちがった宿題がでてきました」。
------どんなふうな?------
『今度は、これはと思うショップに行き、レポートしろ』って」。
レポートは200店を超えたそう。なかでも印象に残っているのは? と聞くと「モンスーン・カフェ」との回答。グローバルダイニングの名店だ。
「記憶に残っているのは、サービスもそうですが、やはり料理ですね」。
息子がマーケットリサーチに精をだす頃、父親が経営する「揚州商人」は、初めて赤字を計上していた。「私が大学3年の夏かな。父がはじめて弱音を吐くんです。『赤字の原因は、オレの経営ミスだ』って。父は『出店を急ぎすぎた』というのです」。
-----初めてのお父様の弱音、どう受け取られましたか?------

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2025年7月14日月曜日

そういえば「新人類世代」って言われてた気がします。気がする。

 

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2025年7月9日水曜日

株式会社FTG Company 代表取締役社長 森川 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社FTG Company 代表取締役社長 森川 誠氏登場。

本文より~

スポーツならなんでもできた。中学まではね、と森川さん。

「もともとは三重県津市で生まれて、すぐに父親の転勤があって名古屋に移ります。だから、出身は名古屋って言っているんです」。
今回、ご登場いただいたのは、あの焼肉の名店「大阪焼肉・ホルモン ふたご」の創業者、李 純哲さんと李 純峯さんから社長に抜擢された森川さん。
李さんにもじつは、この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。李さんとの出会いは後にして、森川さんの話をつづけよう。
「3歳ちがいの兄が1人。兄は私とちがって堅実な人で、父は逆に仕事を転々とするようなタイプの人で、私は父似というか(笑)」。
小・中学校の頃はスポーツならなんでもできた。野球では花形ポジション。「でも、中学まで」と森川さん。高校の野球部には、野球とただしく向き合ってきた選手たちがいた。
「私はっていうと、練習しなくってもできたもんだから、ちゃんと野球に向き合ってこなかった。だから、ぜんぜん敵わなくて。1年の秋に辞めてしまいます」。
進学したのは、地元の公立高校。
愚問と思いつつ<勉強のほうはどうでした?>と聞くと、予想通り、「ぜんぜん」と笑う。そもそも、なにかに縛られるような人ではない。
「野球部を離れたことで、時間もできて、勉強もしないでしょ。だんだんグレていった」と森川さん。
ボクシングが流行っていた時で、少しだけジムにも通った。16歳から飲食店でアルバイトを開始。こちらは大学までつづけている。
進学したのは、愛知県で偏差値最下位クラスの某大学。「教師になりたかった」ということだった。

リベンジ。

教師になりたいと思ったが、品行方正とはいかない。先輩に誘われ、夜のバイトもした。その店で知り合ったとある社長夫人といっしょに飲食店をオープンした。
「じつは、教師になりたいと、直談判までして入学させてもらった大学だったんですが、2年くらいからはもうぜんぜん行ってなかったですね(笑)」。
----仕事がいそがしかった?----
「そうなんですよね。いっしょに始めた社長夫人がオープンしてすぐいなくなって。私は、保証人にもなっていましたから。とはいっても、1年くらいで3店舗をオープンしたくらいですから、けっこういい感じで。ま、そういう感じにみせていたんですが。だんだんとボロがでて、支払いのサイクルが崩れちゃって」。
「結果、1000万円の借金ができてしまった」と笑う。<たいへんでしたね>というと、「そう、だからまた夜の世界にもどってね」と森川さんは苦笑する。
----借金はどうされたんですか?----
「それが、1年で、返済できて」。
----そいつは、すごいですね? たしかに大学どころじゃないですね----
「でしょ。もう、むちゃくちゃな大学生です。でも、いい経験にはなったし、飲食は楽しくて、あの時、もう一度、チャレンジしてやろうと誓ったんです」。
当時、森川さんは、プライドが高くナルシストだったという。だから、リベンジ。それ以外は頭になかった。

そして、李兄弟の名前が、挙がった。

インターンの最中に、大学を辞め、ある会社に入社する。
「東京にでてきたのも、その時です。とにかく、飲食店をやろうと頭は、ぐるぐると、そればかりです。でも、一回、失敗しているでしょ。だから、お手本さがしのために開業支援の会社に就職するんです」。
森川さんは、開業支援のなかで不動産を専門に手がけることになる。営業成績は、創業のメンバー以外ではつねにトップだった。
その仕事を通じて、出会ったお手本の方々の話も聞いた。つぎつぎと有名店の社長の名が挙がる。そして、最後に李さんの名が挙がった。
「関西弁でね。とにかくパワーがあってね。ご存知のように李は、ふたごでしょ。でも、私は知らなかった。最初にお兄さんと名刺を交換して、しばらくして、また、名刺をだしてくるから、ちょっといかれてるんじゃないかって思うんですが、名刺をだしてくる李の向こうに、もう1人の李がいて。えーーーーって」。
ニコニコと名刺をだす李さんの向こうで、もう1人の李さんがおなじようにニコニコしていた。のちに最強のコンビとなる、李兄弟。
だがこのときはまだ、ただの関西弁のにいちゃん2人だった。

フランチャイズでいい。俺にも「ふたご」をさせてくれ。

李さん兄弟は、兄が先に炭火焼肉トラジに就職する。23歳で入社。すぐに頭角を現し、店長、スーパーバイザーと駆け上がり、27歳でトラジの子会社代表に就任している。
その1年前に弟の李さんも入社。飲食の世界で、コンビ、結成となる。余談だが、李さん兄弟の実家には、トロフィーが山のように飾られている。
すべて、小学生時代のもの。兄弟はサッカーがうまく、大阪では、最強コンビとうたわれていた。兄の李さんの右足は、「1億円の右足」と言われたそう。「中学からブラジルへ」という育成計画も立てられていたそうだ。詳細は、やはり前回の飲食の戦士たちをご覧いただくことにしよう。
ともかく、話のつづき。
「私が李兄弟と出会ったのは、彼らが30歳で、私が27歳のときです。私は開業支援の一つとして、彼らに物件を紹介します。ただ、今だからいうんですが、もう少し安くしてあげればよかった。当時は彼らのことも知らず、やたらしゃべるのがうまい関西人くらいに思っていましたから」。
-----面白いだけじゃないですよね?-----
「ええ、もうはじめから彼らには度肝を抜かれます(笑)」。
「大阪焼肉・ホルモン ふたご」オープンの秘話。はじめて聞く話だ。
「とにかく、契約も済み、オープンもちかづいてきます。さて、どうなるかくらいにみていたんですが、オープンの前日だったかな、行ってみたらテーブルもなにもないんです。なんで?こっちの頭が真っ白です。李にどうしたんだ?っていうと、笑いながら、『お金がなくなってしもてん』っていうんです」。
お金がない。でも、テーブルがないと、オープンもできない。でも、お金がない。そうこうしていると、「李さんのお兄さんが茨城から冷蔵庫もってきて、どこからかベニヤを運んできて」と森川さん。
突貫工事で、その日のうちにテーブルと椅子ができた。「テーブルはもうぐらぐらです。これじゃ、あかんわ、と、オープン日にも顔をだすんですが。想像とは異なる別世界。喧騒と、雑然とした、それでいて、お客様すべてが笑っている、そんな世界が広がっていたんです」。
たまげた森川さんは、李兄弟に頭を下げる。「フランチャイズでいい。俺にもふたごをさせてくれ」と。

アクセルとブレーキと、ハンドルと。

はみ出るカルビ、李兄弟の強烈なキャラ、鶴橋仕込みの焼肉。TVも放っておかなかった。森川さんは、すでに述べた通り、フランチャイズをさせてくれと入社している。だが、李兄弟のキャラが森川さんを魅了する。
「2010年5月、五反田にオープンします。これが創業店。翌年7月に中目黒。私はその年の11月にアルバイト入社して、3ヵ月後、新たにオープンした中目黒別館で店長を務めます。その頃ですね。TVでオンエアされて、それから年間10店舗のペースでオープンしていきます」。
-----まじかでみていて李兄弟はどんな存在ですか?-----
「そりゃ、あのキャラですからね。ケンカもします。昔から私もまじって口喧嘩なんてしょっちゅうです。でも、そういうのが、ふたりの、そして私のエネルギーになっていた気もします。彼らをみていると、天才とバカは紙一重って、ほんとそうだよなって思うんですよね(笑)。とにかく、まず行動ありきなんです。アメリカって口にしたなと思ったら、すぐにアメリカで店をオープンしますからね。どうでもいいことですが、今彼らは、年の半分はドバイで暮らしています(笑)」。
確かに行動力は、すごい。
「でも、それだけじゃないんです。テーブルの配置も数センチ単位で調整しますからね。とても繊細です。そのくせ経営には関心がないっていうか、兄は、いちおうブレーキももっていますが、弟はアクセルだけです」。
だからといって、身勝手な2人ではない。利他の精神もあるんだとか。想像しただけでユニークなタレント像が頭に浮かぶ。12年前に取材したときよりも、深く、李さんに接した気がした。彼らを友のように思う、森川さんから聞くからだろうか。

・・・続き

株式会社FTG Company 代表取締役社長 森川 誠氏

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2025年7月7日月曜日

「わが社の居酒屋は8坪、月商1200万円、その秘訣を教えます」、KIWAMIの阿波耕平氏の書籍が完成しました。

 キイストン出版、2025年第2弾の書籍「わが社の居酒屋は8坪、月商1200万円、その秘訣を教えます」/KIWAMIの阿波耕平社長(現在39歳)が完成しました。

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7月3日(木)千葉商科大学・池田ゼミにてエムピーキッチン石川社長ゼミ講義されました。

7月3日(木)千葉商科大学・池田ゼミにてエムピーキッチン石川社長ゼミ講義されました。

石川社長による講義
池田ゼミの学生チームによる発表会

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2025年7月1日火曜日

有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏登場。

本文より~

少年、西川洋右くん。

唐突だが、忍者の里は2つある。甲賀と伊賀だ。今回、ご登場いただいた野村興業3代目の西川洋右さんは、後者の伊賀。ただしくは三重県名張市に生まれている。
名張市は近鉄電車で大阪にも1時間。忍者の里は意外にアクセスが良好。西川さんによれば、奈良県までは歩いて行ける距離だそう。ウィキペディアで調べてみると「大阪のベッドタウン」とあった。
実際、西川さんも生まれは大阪。小さな頃に名張市に移った。お父様は大阪の八尾市にあるシャープに勤務されていたという。
電車で1本。1時間程度なら十分、通勤圏内。西川さんは3人きょうだいの末っ子。兄と姉がいる。
子どもたちにとって、自然豊かな忍者の里は楽しさに満ちていたに違いないと思っていたが、西川さんの話をきくと、イメージはだいぶ違った。
「とにかく引っ込み思案だった」と西川さん。
なんでも、やさしい兄に寝かしつけられ、姉のあとにくっついて歩く少年だったそう。
どんな少年だったのか、もう少し話をきいてみた。
「小学校では剣道を習っていました。母が坂本龍馬好きだったんです。特技はなく、これといったエピソードもありません。ただ、そうですね。掛け算をマスターするのがクラスでいちばん早かったくらいかな。あ、そう、それに演劇で、ウケた。これで、ちょっと自信がついたかな」。
<それも、小学生時代の話ですか?>
「そう。中学は卓球部。最初はまじめだったんですが、先輩とゴタゴタしているうちに、だんだん距離を置くようになりました(笑)」。
高校でも西川さんは、そのまま。兄姉とおなじ高校に進学し、おなじようにテニス部に入部している。
「高校まで、私自身の意思で何かをした記憶はありません。すべて流れに従って生きていたような」。
ただ一つ、小さなエピソードがあった。
「ある日、好きな子に告白したんです」と西川さん。
<どうなりました?>と聞くと、西川さんは、照れ笑いする。
初めての彼女。2人の初々しく、微笑ましい様子が頭に浮かんだ。

カナダへの留学と、西川青年と。

「天理教ではなかった」と断ったうえで、「天理大学に進学した」と西川さん。なんでも進学する頃、仏教に興味があったそうだ。天理大学は西川さんが歩いていけるくらいと言った奈良県にある。
「奈良はすぐですが、大学までは車で1時間くらい」と西川さん。
高校を卒業して、きょうだいは別々の道を進む。
「兄は福祉系の専門学校へ。姉は京都の芸大へ。そして私はちかくの、天理大学。やっぱり冒険心がないのかな(笑)」。
<でもこのあと、カナダへ。大胆な冒険のはじまりですね?>
「そうですね。2年の春に1ヵ月、短期留学します。高校からいっしょで、当時から憧れていた先輩がカナダに留学して、彼女から土産話を聞いているうちに行ってみたくなったんです」。
もちろん、簡単に行ける距離じゃない。世界地図でみると、かなり遠い。西川さんが留学したという「レジャイナ大学」は、中西部サスカチュワン州の州都レジャイナにあった。
西川さんによると、「ロッキー山脈から吹き下ろしがあり、マイナス40度になる」そうだ。
そのカナダでの話。
「カナダには1ヵ月、ホームステイをして。じつは、帰国して1年、バイトをしまくって、150万円ためて、1年休学して、今度は1年間、おなじレジャイナ大学に留学します」。
短期留学のときとは異なり、ともだちもできる。「韓国人の彼女もできた」と西川さん。その彼女とおなじシェアハウスに住んでいた青年が、つぎの運命をひらくことになる。
「彼がね、思いがけない話をもってくるんです」。
<どんな話ですか?>
「『ケニアに行かないか?』って(笑)」。

キリンとライオンと、ナイロビの4年間。

<ケニア?> 話をきいて、ふたたび世界地図を広げた。なんでも、内定を辞退し、大学卒業と同時にケニアに渡ったそうだ。
「彼の父親がケニアのナイロビを中心に活動するNPO法人の代表だったんです」。
法人の活動は、「微生物をつかって、スラム街を、」うんぬんというむずかしい話だった。
「日本での就職を辞め、ケニアに渡ったのは、私自身のアイデンティティが『海外』にあると思ったからなんです」。
しかし、今度も、遠い。
ナイロビは、アフリカ大陸の中央にある。赤道近くだが、「標高が高く、日本でいうと軽井沢のよう」と西川さん。クリスマスになると、欧米人が保養のためやってくるそうだ。
「もともとイギリス植民地でした。だから、ヨーロッパ建築の建物が少なくありません。市内には、有名なナイロビ国立公園があって、キリンやライオンが住んでいます」。
「飼われている」ではなく、「住んでいる」という言葉で、広くはてしないサファリと、そのなかで暮らす動物たちの様子が浮かんでくる。
ちなみに、ウィキペディアによると、ナイロビは、マサイ語で「冷たい水の場所」という意味らしい。むろん、ケニアの経済の中心地でもある。だが、中心部でも、治安はいいわけではない。むしろ、その逆。
「私も、何度か財布をすられて、そう、空き巣にも2回入られました。でもね。部屋に取るものなんてない。暮らしては行けましたが、給料だって5万円でしたからね」。
何もなかったからだろう。
「空き巣が取っていったのは、冷蔵庫にあるバナナだけだった」と、こちらを笑わせてくれる。
結局、西川さんは、このケニアには4年いることになる。その間、1人の日本人女性と知り合っている。その女性が今の奥様。奥様もおなじNPO法人で勤務されていたらしい。
ケニアで日本人の男女が出会う。奇跡的な出会いだが、ぎゃくにいうと、だから仲が急速に深まったのではないだろうか。
「彼女は私より1年早く帰国するんですが、最初は『ケニアでいっしょに暮らそう』と話していたんです。ただ、NPOの団体内部がゴタゴタして、彼女との間でも色々あって、私もケニアを離れて、帰国しました」。
帰国した西川さんは、日本の設計関連の会社に就職する。
<4年ぶりの日本はどうでしたか?>
「ぜんぜんちがいますよね。ケニアの道は、舗装もされていない赤土でしょ。治安もまったくちがう。向こうはさすがに怖かったです。ただ、周りには世界中の人がいて、私も世界のなかの1人でした」。
「自分の肌の色を忘れた」と西川さん。
「でも、日本にもどると、やはり、日本人ということを意識せざるをえなくなった気がします」。
貴重な経験は、カバンにしまい、就職したのは、海外とは縁のない会社だった。
「向こうで頑張ってきたと思っていたんですが、時間軸とか色々と違うところがあったからでしょうか」。
「なかなか思うように結果がでなかった」という。
「そういうときにお義父さんから、『一度、真剣に考えてくれないか』って、声をかけていただくんです」。
<跡取りの話ですね?>
「そうです。妻は5人姉妹の長女でしたから。つよく勧められたわけではいですが、お店をたたみたくないという義父の思いが伝わってきました」。

・・・続き

有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏

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