2022年5月2日月曜日

株式会社ゴールデンアイ 代表取締役 土屋公泰氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゴールデンアイ 代表取締役 土屋公泰氏登場。


本文より~

飲食業はやらないと心に決めていた。

熱海で生まれたが、両親の商売の都合ですぐに伊東に引っ越し、小学生時代を過ごした。
父は、35年前のバブル真っ只中、伊東駅前のキネマ通りにイタリアンレストランを開業。当初は従業員もたくさんいて、店に遊びに行くと可愛がってもらったが、バブル崩壊とともに商売はうまくいかなくなった。子ども心にも暮らしが貧しくなっていくのがわかった。
当時ブームだったファミコンも買ってもらえず、いとこから借りて遊んでいた。
「お金のある家に生まれたかった…」
土屋少年は、「社長になる」こと、それも絶対に「飲食以外で!」と心に決めた。

サーフィンとの出会い それから。

小学6年生の頃、近所のおじさんにサーフィンを教わり、伊東の宇佐美や湯河原の吉浜によく連れていってもらった。
中学からはサーフィンにますます熱中し、ボードを買うお金がなかったのでアルバイトをして、師匠が昔使っていた古いボードを1万円で譲ってもらった。
学校に行く前、週に3~4日くらいは海に行ってから登校。部活動は桜木花道に憧れてバスケットボール部。人とすぐ仲良くなれる性格から友人もたくさんできた。
「社長になる」夢の他、プロサーファーにも憧れるようにもなった。
あくまでも「貧乏からの脱出」が一番の目標であった土屋氏に、高校進学は要らないものだったが、これに関しては両親の頑なな反対に合い、仕方なく地元の高校に進学する。
この頃、サーフィンの試合にも出るようになったが、まったく勝てない。自信のあったサーフィンでも「上には上がいる」事実を突きつけられ、自分のセンスのなさを嘆いた。
サーフィンの道を諦めて、高2からはバイトばかりしていた。主に設備工事の会社だった。こういう仕事が自分には合っている、この業界で社長になろうと思い始め、学校にはほとんど行かず、別の業界に就職もする気はなかったが、学校の勧めもあり、とりあえず就職の試験を受けた。「東京に遊びに行きたい」と、旅行のつもりで記念受験したら、なぜか大手パチンコ店に合格してしまい18歳で上京することになった。

大事故!

パチンコ店の仕事は新鮮だった。経験したことのないことが多く、マイクアナウンスや常連への接客など、楽しいと思えるものだった。職場での人間関係も良かった。何より、給料が良かった。そんな楽しく過ごしている最中、悲劇は起きた。
正月休みで地元に帰り、友人のバイクの後ろに乗り遊んでいた。その時事故は起きた。中型バイクで走っていたところ、車と正面衝突の大事故。土屋氏は吹き飛ばされ、顔から落ち、手も顔もグチャグチャ。全身骨折し7ヶ月入院することとなる。何とか一命はとりとめたものの、この事故でパチンコ店を辞めざるをえなくなった。

飲食業への入口。

長い入院生活を終え、退院してからは、友人の父親が経営する建設会社で大工仕事をさせてもらった。現場仕事は楽しかったし、そのまま続けるつもりだったが、まだ20歳。
「不安定な日雇いではなく、就職しろ」と親にどやされ、母の手に握られていた新聞の切り抜きにあった求人にしぶしぶ応募。
またなぜか採用され、入社したのはカラオケ大手の第一興商。カラオケ機材のリース営業を担当し、夜のお店を回ることとになる。これがやってみるとなかなか楽しく、「夜のお店」に興味を持つ入口となった。1年とちょっと頑張ったものの、直属の上司が、自分の失敗で支店長に目の前で怒られて謝っていることに我慢が出来ず、喧嘩をしてクビとなる。
血の気が多いというより、「社会の仕組みがわかってない、若造でした」と今となっては反省している。
会社をクビになってから、居酒屋でアルバイトをしていたところ、熱海のキャバクラの社長にスカウトされ、ボーイとして勤務することに。給料は安い、休みは少ないという環境下でも、「夜の仕事は意外に自分に合っている」と感じていた土屋氏は、この世界で独立しようと決め、同僚が次々辞めても耐えてみせた。

名門ホテルの懐の深さ。

独立を決めた土屋氏だったが、手元にお金はない。夜の仕事の人脈と、店舗の要らない業態、熱海・伊東という観光客向けのニーズを考え、コンパニオン派遣会社を設立したのが23歳。
観光ホテルに営業をかけようと、まず向かったのがゴルファー憧れの名門ゴルフコースのある川奈ホテルだった。
何を思ったのか、何も考えていなかったのか、はたまた世間を舐めていたのか…ラフなシャツにスラックスでノーネクタイ、手ぶらというスタイルだった。
そんな無謀な飛び込み営業に、川奈ホテル側からはわざわざ役職のある担当者が出てきてこう言った。
「御社とお付き合いはできません。ただ、その勇気は認めます。ちゃんとした会社になって出直し、当ホテルからお仕事で呼ばれるよう頑張ってください」と言われ、帰り道、土屋氏は紳士服店に寄り、スーツを買った。事務所に戻って営業に使う資料を作り、その日から心を入れ替え、真面目に営業にまわった。そのかいもあり、少しずつ仕事をもらえるようになっていった。
後日談だが、その噂を聞いてか、数年後には川奈ホテルからもお呼びをかけてもらうことができ、当時のだらしなかった自分を諫めてくれた担当者との再会も果たしている。

二人の恩人。

コンパニオン派遣会社を設立して4年。やっと自分の店を出すお金が溜まった土屋氏。伊東のキャバクラ物件を居抜きで購入。もともと客がついていた店だったこともあり、地元の友人達も来てくれ、上々の滑り出しだった。物件購入ですっからかんになっていた懐にも、内装などに手を入れる余裕ができ、自身が初めて開店した店「ZERO」の看板を晴れて掲げることができた。
しかし、これが仇となった。
風営法の許可は前の店の名前で取得されており、「ZERO」は無許可営業として、重い処分を受けたのである。
罰金、従業員の給与や家賃の支払いと、お金はすべて無くなった。古い風呂なしアパートに引っ越し、妻や子どもも実家に帰り、離婚され、すべてを失った。
店は、新たに申請した許可が下りるまでは、接客の出来ないカウンターだけの営業となり、閑散としていた。
「もう、どうにもならない。死ぬしかない」
そんな時、毎日コーラを1杯飲んで1万円を置いて行ってくれる人がいた。毎日だ。その人は、自身も加盟している青年会議所の先輩だった。「人に迷惑をかけたわけじゃない。今はつらいけど、ふんばれ」と励まされた。
そしてもう一人。昔からの親友が「まだ頑張れるよ」となけなしの70万円を貸してくれた。「俺なんかのために」涙があふれた。
二人の恩人に助けられ、泣いてばかりはいられない。「俺は何をやっているんだ!」と、ふんどしを締め直す決心をした。
気持ちを立て直し、店の営業許可が再度下りるまでの間は別のお店で一従業員として働き、コンパニオン派遣会社の業務にも力を入れた。
許可が下りてからは自ら現場に立ち、サービスの見直しなど徹底的に行った。
一度は「死にたい」と思った土屋氏を再起させたのは、この二人の恩人はじめ、見捨てなかった多くの周囲の人たちであり、その人たちへの感謝の気持ちを一生忘れることはない。と土屋氏は語る。

続き

株式会社ゴールデンアイ 代表取締役 土屋公泰 氏

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