2022年5月24日火曜日

もぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”もぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏登場。


本文より~

5歳のときに抱いた「社長になりたい!」という大志。

『少年よ大志を抱け』という有名な言葉がある。
今回、ご登場いただいた牧元氏は、5歳にして「社長になりたい!」という「大志」を抱いた。大人が考えれば「社長になる」ということは、相当の覚悟が必要だが、そこは5歳、無邪気というか「カワイイ!」という言葉のほうがマッチしている。しかしながら、結果的には幼い頃に抱いた大志を実現、「初志貫徹」の見本のような人生を歩んできている。

社長に憧れたワケは、叔父が社長だったから。

幼いながらも「社長になりたい!」と思った動機、きっかけは実に他愛にないことだったと語る。
「母方の叔父が、内装業の社長だったんです。よく遊びにいったりしていたんですが、大きな家に住んでいましたし、子どもの目にも、なんとなく“いい生活”をしているように映ったんです」。
当然といえば当然だろう。子どもには企業にとって「社長」とはどのような存在なのか、どのような仕事をするのかは分からない。むしろ“憧れ”で十分だし、“憧れ”があったから、現在の牧元氏がある。

「大志」実現を睨んで、商業高校へ進学。

5歳にして「大志」を抱いた牧元氏は、1976年、千葉県茂原市に生まれた。ご両親はともに鹿児島出身とのこと。両親が知り合ったのは奈良県で、その後、千葉県茂原市へ。5歳年上の姉との4人家族。
「父は革細工の職人でした。父なりの考えもあったと思いますが、茂原に引っ越し日立製作所に勤めました。基本的には工場ですから三交代勤務でした」。
「田圃と山に囲まれた土地でした。小学校は3クラスでした」。どんな少年だったのか。
「やんちゃでもなかったですし、どちらかといえば、地味だったと思います。ただ、人を笑わせるのは好きでしたね。スポーツに夢中になったことはありませんでしたけれど、バドミントン部に所属していました」。やがて進学。
「中学校は7クラス、高等学校は4クラスでした。ただ、高校は将来のことを考え商業高校に進みました。ここで学んだ簿記や決算書などの知識は役に立っていますね。あっ!生徒会長ではないけれど生徒会にも所属していました」。

アルバイトにいそしんだ高校時代、母との離別。

子どもの頃、両親から「勉強しなさい」と言われたことはなかったと振り返るが、父親には本を読むことを薦められた。「松下幸之助、本田宗一郎の著書や自己啓発関連の本を読みました。ただ、読むとお小遣いをくれたんですよね」。
「高校時代、学校はアルバイト禁止でしたが、“社会の営みを学びたい”“社会経験を積み重ねたい”“世に出たい”といった意識、願望があったのでアルバイトをしていました」。その勤務実態は、ハードそのもの。
「朝5時から8時までコンビニで働いた後、登校。授業が終わって夕方からコンビニと寿司屋とで週5日、働いていました。両親とも応援してくれました。ただ、母親は厳しかったですね。疲れて休もうとしたり、遅刻したりするときつく怒られました」
当時、時給600円で月収は10万円前後。どれだけハードだったかは容易に想像できる。高校生にとっては、いや、大人にとっても10万円は大金だ。「そのお金ですか?カラオケや友人に奢ったりして遣いましたね」。
家族の応援、叱咤激励を得てアルバイトにいそしんでいた日々、牧元家を不幸が襲う。母親が「胃癌」で他界した。高校3年の時だった。「ショックでしたね」。

寿司屋に就職。半年で辞めることに。

高校卒業し就職。選んだのは、親戚の知人が経営していた原宿の寿司屋だった。
「就職先として飲食業という意識は特にはなかったですね。ただ、寿司屋になったら独立できるのではないかと思いました。住み込みでした」。が、あえなく半年で辞めることに。
「仕事が終わってから連夜、クラブ通いの日々でした。当然、仕事に影響が出ますよね。いわば挫折です」。
辞めたあと、具体的な考えや就職先も計画もなく、地元に帰った。

警備員、ディズニーランドを経て、23歳で「焼鳥屋台」開業。

具体的な目標もなく地元に帰った牧元氏は、とりあえず警備員の仕事に就いた。その一方、「芸は身を助く」ではないが、思わぬチャンスが訪れた。当時は思ってはいなかったのだろうけれど、ある選択が、振り返ってみれば牧元氏にとってはターニングポイントになった。
「ダンスが好きだったんです。それでディズニーランドのオーディションを受けて採用されました。園内の掃除、清掃から園内を彩るキャストとして来園者の老若男女を楽しませる仕事を4年、続けました」。ここで運命的な出会い、副社長兼感動プロデューサーの多田氏と知り合った。
「独立しようと考え出したのは、この頃ですね。4年間で約200万円、貯めました」。
独立の意思は固めたものの、どんな職種で独立するかまでは決めていなかったが、「FC展開している企業にFC加盟店として独立することを考えました。いろんなFCを見てきたんですが、結構、冷たいんですよ。そんななか、“大吉兆”という焼鳥屋を運営している企業が親身になって相談にのってくれ、熱心に勧めてくれました」。
こうした経緯を経て“焼鳥屋台”を開業、23歳のときだった。

「心を籠める」。お客さまに愛されることがイチバン!

初期投資は400~500万円。今はなき千葉県東金市内の「スーパーセイフー東金店」の店頭で開業した。
「地域に愛される焼鳥屋を目指し、4年間、雨の日も風の日も、15時から24時まで吹きっ晒しの店頭で休みなく営業を続けました。初めのころの売上は1日10000円くらいでしたかね。その後、平均売上が140万円くらいにまで増えましたね」
お客さまに喜ばれた、愛された理由は「味」にあった。
「屋台の場合、普通は「半焼き」状態から仕上げるのですが、私の場合は、あえて「イチ」から、つまり「生」の状態から焼くので時間がかかるんだけれど、このほうが、断然、美味しいですよ」。お客さまはシビアです。
そして28歳。次へのステップへ飛び立つ。居酒屋業態「本千葉駅前の串屋横丁」を開業した。

居酒屋で接客の難しさを思い知った。

「ドリーマーズという企業の中村さんがFC店を募集していたので、早速、門を叩き、ディズニーランドで同僚だった多田と、中村さんの店、「串屋横丁」に修業にいきました」。
多田氏に参加してもらうのには、極端に言えば「一緒にやれるのは、お前しかいない!」という牧元氏の熱意以外のなにものでもない。『三顧の礼』という、中国・三国志の有名な言葉がある。ある武将がある参謀役が戦いには欠かせないと判断し、三度にわたって口説いたという故事だ。牧元氏は多田氏を口説いて口説いた結果だった。
ただ居酒屋は甘くはなかった。接客ができなかった。「屋台とは違うんだ、ということが身に沁みました。鳥を焼くことはできるのですが、接客がまるでダメ。叱られてばかりの半年でした」。
お酒、料理を提供するだけ居酒屋が成り立つわけではない。お客さまにとって「心地よい時間」を過ごしてもらえる、「また来よう」と思ってもらえる接客が肝心だ。
半年、接客のノウハウを叩きこまれた牧元氏と多田氏。満を持して「本千葉駅前の串屋横丁」を開業。牧元氏28歳、多田氏27歳のときだった。

FC店スタート、2年後にFC2号店。3号店はオリジナルブランド。

「ラーメン屋さんの居抜き物件で、1号店の“本千葉駅前の串屋横丁”を開業しました。開業当時は“順調なスタート”とはいえず日商7~8万円くらいでしたけれど14~15万円、ほぼ倍になりました」。
一方で、FC展開の弱点を知り、次なる展開はオリジナルブランドを考えた。
「FC店というのは、その仕組み上、どうしても大きな利益は望めません。やっぱり自社ブランドを持ちたいと思いました」。2年後、「元々、お客さまとして来てくれていた、サンマーフィーの鈴木氏の店で修業し、「オリジナルブランド」として3号店を開業した。
こうした積み重ねの結果、現在は、千葉市、蘇我、幕張で7店舗、1工場(セントラルキッチン)までに拡大した。
「昨年5月、コロナ禍でしたが、千葉市中央に焼肉店を開業しました。初めての試みですが、今後、焼肉業態も2~3店舗、拡大したいと考えています。場所ですが、千葉県愛が強いのか東京に進出する考えはなく、千葉市から東の東京より、市川とか船橋を考えています」。

・・・続き

もぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏

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