2019年9月4日水曜日

株式会社U-MORE 代表取締役社長 山﨑基史氏登場。

本文より~

サッカーも、野球もつづかない。好奇心旺盛な少年。

2年浪人して、学習院に合格した。そもそもは有名なアーティストに憧れて音楽に携わる仕事を目指し、日大芸術科への進学を希望していたが、学習院なら悪くない。人生でいちばんうれしかったことの一つと、山﨑氏がいうのも頷ける。
「学習院ってやっぱり、お坊ちゃまもいるし、頭の切れる人もいる。そんななかで下町育ちの私は、ちょっと浮いていたかもしれません。それでも大学時代は、いま思い返しても楽しいことばかりでしたが」。
山崎氏は1976年、京都市北区に生まれている。3人兄弟の真ん中。父は商社を経営し、社員数も一時は100人規模に達したそうだ。
「といっても、私が4歳の時に会社をたたんで東京に引っ越します。だから、京都弁はぜんぜんしゃべれないです。東京の下町育ちというのが正確です」。
当時、下町の状況はどうだったんだろう。
山崎氏が4歳といえば、1980年。経済はまだ活況ではなかったが、バブルの芽が少しずつ育ち始めた頃でもある。バブルを経て、下町の風景は一新したはずである。
「学生の頃は、何をやってもつづかなかったですね。サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて…」。
そういって山崎氏は照れ笑いするが、好奇心が旺盛だった証だったに違いない。

マスコミ志望。USENに就職する。

「大学では『放送研究部』っていう部に入ります。この部で部長も経験するんですが、私が部長の時に部員は100人に。これは、創設以来、最高の部員数でした。『放送研究部』っていうのは、ま、いろいろするわけですが、映像制作やラジオ番組の制作とか。私もそうですがTV局関係でバイトをする部員が多かったですね。マスコミとの距離がちかくなる、そんな魂胆で入部してきたメンバーもいたはずです。就職先も、希望は当然、マスコミ関係です。私も何社か受験するんですが、その時、就職したのが有線ブロードネットワークス社、もう少しわかりやすくいえばUSENです。放送関係ということもあったんですが、じつは、大学時代のバイトを通して、ショップのプロデュースにも興味があったからです」。
じつは、USENには「店舗事業部」という部署があった。
「そうなんです。USENに就職したのも、この事業部があったから。2年間は、BGMやヒトサラの営業だったんですが、3年目にこちらに異動しています。これが、いまの始まりですね」。
山崎氏は、プロデュースはもちろん経営にも興味があったという。「だから、当時のグループ会社も含め、転々とするんですが、どこに行っても経営陣をきびしい目でみちゃうんですよね」。
経営者の父親の遺伝子なのだろうか。
「ただ、私は、新人の頃からナンバー2がいいなと思っていたんです」。
「なぜ、トップじゃないのかって。だって、ナンバー2のほうが自由でしょ。社長は、社長の椅子に座っていてもらって、ナンバー2の私らが全部事業を動かしていくっていうイメージです。でも、まぁ、そううまくはいきませんね。そういうことはだんだんわかってきます/笑」。

好奇心と、勇気と。

山崎氏はグループ内の会社を含め、転々としたと言っているが、たしかに、子会社だけで6社と、たしかに少なくない。子会社を転々とし、様々なキャリアを積んでいくなかで、経営者としての評価も高まる。
「さきほどいったように最初は、ナンバー2がいいな、と思っていたんですが、トップじゃないとできないことってあるってわかってくるんですね。私が大嫌いな長い会議を止めさせるのもそのひとつ。トップじゃないから、なんともできない/笑。だから、トップもいいかな、と思うようになっていたんです。その後、グループから独立し現在のU-MOREの設立に合わせ代表取締役の依頼があった時には、すぐに『やります』と」。
旺盛な好奇心と、新たなことも怯まずはじめる勇気と。案外、サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて、と笑った学生の頃と似ている。
・・・続き
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