2019年4月18日木曜日

株式会社フロムフォティ オーナーシェフ 石塚和生氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フロムフォティ オーナーシェフ 石塚和生氏登場
本文より~

高校2年。独り立ちという選択。

父親に引き取られたのは、5歳の時。ただし、石塚氏には「寿がきやのおじさん」としか知らされていなかった。「私は私生児で、母は私が5歳の時に亡くなります。それ以来、私を育ててくれたのが、寿がきやのおじさん」。
もっとも育てたと言っても、あちこちの知り合いに預けられただけ。
「7回は、家族がかわった」と石塚氏は笑う。「なかには情が移って『父や母と言いなさい』って言ってくれる方もいたんですが、そうなるとおじさんが来て、ちがう家族に連れていかれるんです。親戚をたらい回しってよく聞くけど、他人の家たらい回しってきついですよね~/笑」。
いまでも記憶しているシーンがある。ある家族といっしょに遊園地に行った時のこと。「帰りにはその家族はいないんです。そしてその足で新たな家族のところに連れていかれた。刑務所で釈放と言われて喜んでついて行ったら死刑執行みたいなものですよ」。笑顔も、やすらぎも、はく奪されるためにあった。ただ、少年には、その感覚もなかったかもしれない。ただただ、そういうもんなんだ、と。
そんな生活が、小学4年生までつづく。時には、施設にも入れられた。
「もっとも施設がいちばん心やすらいだ」と石塚氏は笑う。
「食事もみんないっしょでしょ。ぼくのだけが、特別じゃない/笑」。
「寿がきやのおじさん」が、実の父親と知ったのは小学6年生のときだった。知ったところで、何かが好転するわけではなかった。ただ、4年生になると初めて血のつながった祖父母のところに預けられ、久しぶりに心から人の温もりを知ることになる。
「でも、高校進学という時に祖父母といっしょに「寿がきやのおじさん」、つまり、実の父親の自宅に移り住むことになるんです」。
「もう、隠しようがなくなったのでは」と石塚氏はいうが、石塚氏にしても、いい迷惑である。とたんに居場所がなくなった。きょうだいは、石塚氏を含め4人。石塚氏がいちばん下。高校2年生。石塚氏は書置きを残して、自宅をでる。どうみても「自宅」と映らなかったからだ。
「もともと自分に自宅なんてなかったんですよね/笑」。

レストラン勤務。選択肢は、それしかなかった。

「これからは独りで生きていきます」と書いた。16歳の少年の文字は、けっして上手ではなかったろう。しかし、それは、物心ついた頃からの結論であり、決意を立派に示していた。
「最初は、お金もないわけです。とにかく、コック見習いでレストランに潜り込みます。当時は、ほかに選択肢がなかったんです。だからコックになりたいと思ってスタートしたわけじゃない。そんなカッコイイ話じゃないんです」。
仕事は決まったがお金はない。「そうなんです。アパートを借りるお金もない。だから、半年くらいホームレスでした。井の頭公園のベンチやトイレ、そして雨の日は始発電車のなかで眠っていました」。
横須賀線に乗って終着駅まで行く。往復の間が、石塚氏の睡眠時間だ。
「僕の場合、休憩時間に銭湯に毎日行ってましたから、ホームレスと言っても本当に家がなかっただけ。こんなことは生死をさまよった子供時代を考えれば大したことじゃ…。むしろいい思い出ですよ」。と石塚氏は言う。
「17歳になってアパートを借りて。もう、自由です。だれの顔色もうかがわなくていい」。
職場という居場所もあった。学校には、それでも通っていたが、高校3年の3学期。ついに退学してしまう。「決めたらすぐ実行なんですよね/笑。生きていけるって初めて思ったから。レストランは朝10時~夜10時まで。ありがたいことに賄いもある」。
しかし、いつまでもというわけにはいかない。将来のこともある。すべて1人で答えをだすしかない。アドバイスを聞く人ももちろんいない。
「3年くらい。そう20歳まで、高校時代からお世話になったレストランで勤務します。20歳で、パルコにあったカフェレストランに転職し、こちらでも3年くらい勤務し、新宿西口にあったNSビルの29階のレストランに移ります。独立は26歳の時です」。
先輩にさそわれた。当初は、先輩がオーナーとなり、石塚氏が現場で指揮を執ったらしい。前職のレストランから石塚氏を慕って8人がついてきた。「そんなにいらないですよね。みんなの部屋も借りなくっちゃいけないし。たぶん、じぶんの店をだせると舞い上がり、じぶんの家族ができたことに酔っていたんでしょうね」。
石塚氏を慕ってついてきたメンバーたち。初めての家族。疑似家族であっても、1人1人の笑顔がいとおしい。

TV出演。

練馬区にイタリア料理「La Pasta」をオープンしたのは、1987年。石塚氏、27歳。つぎに、エノテカ「Vino Rosso Italiano」、オステリア「フィレンツェ食堂」などをオープンし、計6店舗を展開する。イタリアンブームも到来。石塚氏も「いい時には、5億円になった」と言っている。ただ、利益は充分にでていなかったようだ。
「経営者としての私の甘さですね。FLもPLもわからない。ただ、料理人たちの気持ちだけはわかるんです。当時、イタリア料理は、ただ焼くだけのような素材を重視するスタイルになるんです。だから、うちのシェフたちも、そういうので勝負したくなる。だから、1本1万円もするスズキをつかうんですが、高い立地なんかに店は出せないし、麻布六本木みたいな、お客様いないんです/笑」。
41歳まで頑張った。しかし、そこで、ちからが尽きた。「店を閉めたのは、私が41歳の時です。そして、ちょうどその頃ですね。TVに出演したのは」。
実は、石塚氏、TBS系TV「ガチンコ!ラーメン道」に出演している。番組を仕切ったのは、ラーメンの鬼とも呼ばれた「支那そばや」の佐野実氏だ。
「たまたま、TV局の人がきて、『ラーメン道』いう企画が進んでいるんだけれど、『だれか紹介してくれませんか』っていうから、じゃ、オレがって/笑」。
何を思って、手を挙げたのだろう。
ラーメンが好きだったわけではない。敢えて好きというなら、「チャルメラ」と「サッポロ一番」だった。ただ、イタリア料理とは、パスタという共通項がある。
ともかく、この番組はラーメンの鬼である佐野氏の下で参加した料理人たちがラーメンづくりを競うのだが、何しろ、テーマが「ガチンコ」。仕切るのが佐野氏である。ハンパないバトルが繰り広げられる。
「お前の20年は、なんだったんだよ」と佐野氏から罵声が飛んだ。
「いろいろ言われてる番組ですが、結構ガチでしたよ。ぼくの役割は、冷静なタイプの、いわば進行役です。ええ、いってもTVでしょ。そういう役割が、それぞれにね」。商魂をためすために、大阪に向かったこともある。
「なにわ」のこわもてのおじさんたちに難題を突き付けられ「あの時だけは、マジにガチでしたね。カメラが回ってなかったら、どうなっていたんでしょう/笑。人情ある人達だったなあ」。
TVでは、悪戦苦闘しているのだが、実際、ラーメンづくりが難しかったどうかは聞きもらした。ただ、「佐野実」という「鬼」に出会えたのは、大きな収穫だった。「なにもかもが新鮮です。佐野さんのラーメンにかける思い。横にいるだけで、ビリビリと伝わってきました」。
イタリアンからラーメンに舵を切り、石塚氏が再スタートしたのは2009年のことである。
以来、2018年現在で、9年が経つ。
「佐野さんからも、石塚のオリジナルで勝負したらどうかと言われていたんですが、私は教え通り、しょうゆと塩で勝負しました。それを5年くらいつづけ、ようやく私自身が納得できたので、はじめてオリジナルに、更に舵を切ったんです」。
ラーメンを和食とすれば、和食とイタリアンの融合。それがいまの、石塚氏のラーメンの真骨頂である。イタリアンレストランで、いったん挫折したのは事実だが、復活は見事の二文字に尽きる。
・・・続き
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