2019年4月19日金曜日

株式会社サクラブルーコーポレーション 代表取締役 南垣佳秀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サクラブルーコーポレーション 代表取締役 南垣佳秀氏登場
本文より~

厳しかった寮生活。

生まれも育ちも、大阪の天満橋。毎年サクラの季節には「造幣局の通り抜け」で有名な場所だ。小学生のときはもっぱら「少年野球」に明け暮れていた南垣氏だったが、4年生のときに母親がガンで亡くなってしまう。「あまり母親の記憶がない」ということだが、その出来事がきっかけで、少しずつ素行が悪くなり始める。当時父親は祖父母が建てたマンションの1Fで大衆食堂を営んでおり、なかなか子どもの相手をしてやれなかった。そういった事情もあって、中学は全寮制で中高一貫の、PL学園に入学する。「当時父親から、『野球で有名な学校に入って、もっとプレーしたいやろ?なら一生懸命勉強せなあかんな』と言われ、勉強をすごく頑張ったんですよ。結果倍率3倍の中を見事突破できました。ただ、今考えたら、素行の悪さを直すのと、自分が面倒見られないからということで、全寮制の学校に入れられたようなもんです。うまく丸め込まれましたね」。
体育会系の学校の寮生活は、それは厳しいものがあった。朝は6時15分起床。隅々までキチンと清掃し、先輩のユニフォームや下着の洗濯、食事の準備など。先輩に「水が飲みたい」と言われれば、冷水器までダッシュして汲みに行くこともしょっちゅう。「男子寮なんて雑然としていて汚い、と思うじゃないですか。でもね、ウチの寮はピカピカ。チリひとつ落ちてないです。それだけ厳しく掃除をやらされたんですよね」。また、無断で寮の外に出ると、即丸坊主。「男女交際禁止」のルールがあったので、女子と2人で会話しているところが発見されると、これまた丸坊主。女性との付き合いはもちろん、デートすらできない状況だった。中学・高校とこんな毎日。「そんな中でも、上下関係やルールを守るということの大事さが身についたので、それはそれでよかったなと思っています」。
ところが、野球は続かなかった。周囲のレベルがあまりにも高すぎたのだ。これではレギュラーは難しいと思い、野球部を諦めてサッカー部に入部。ここではレギュラーの座を射止めるだけでなく、キャプテンにも就任。みんなをまとめあげていく存在となった。高校でもそのままサッカー部へ。相変わらず全寮制の生活ではあったが、体育科である野球部と違ってサッカー部は「普通科」。だから、野球部ほど厳しい寮生活ではなかったという。とはいえ、寮生活をしていない人の毎日と比べれば、自由度はまったくなかったといっても過言ではないだろう。
その反動は、大学生になって現れる。いうなれば「大学デビュー」。今まで抑えられていたものがイッキに解放されるのである。「学生時代はとにかく遊びまくりました。『こんな世界があるのか』ってかんじでしたね。中古車買って、サーフィンしてスノボやって…。おかげで半年間留年してしまいました」。
大学卒業後は就職をせず、旅行会社と契約をし、栂池高原で2年間アルバイトを続けた。「朝と夜は到着するお客さん、出発するお客さんの手続きや手配をし、昼間の空き時間でずっとスノボしてました。あの頃がいちばん楽しかったですね」。

そして飲食の道へ。

何不自由のない大学時代、そして卒業後のフリーター時代を過ごした南垣氏。一方で「こんな生活をずっと続けてたらダメになってしまう」と危機感も感じていたという。
「親戚からも『いつ働くねん』と言われ、プレッシャーを感じていたのもありました」。それもあって、本格的に働くことを決意する。「日本の会社に入っても、2年も遅れてるので新卒には勝てない。だから、実力主義の外資系の会社を選びました」。入社したのは、外資系のたばこメーカー。ルート営業としてたばこ店やスーパー、施設内のお店などを営業して回った。もともとあったコミュニケーション能力がここで花開き、営業として立派に活躍する。しかし、約9年間働いたところで退職。
「父の影響もあり、自分は最終的には飲食の道に進むんだ、という思いがあったんですね。それに僕自身、カフェをやってみたいとも思っていた。今の会社でもそれなりに楽しく仕事できてたんですが、将来的なポジションのことを考えたときに、いけたとしてもここまでだろうなぁ、と先が見えたんです。それなら、将来カフェを開くために、どこかのお店で修行しようと思い立ちました」。
転職したのは、おしゃれなカフェを多数展開する、業界でも有名な会社。営業時代に60万円の給料をもらっていたのが、転職後は13万円にまで落ちた。「当時結婚もし、子どもも一人いたので、大丈夫かな?と不安にもなりましたが、幸いこれまでの蓄えがあったし、そのときは実家に住んでいて家賃もかからなかったので、まあ大丈夫だろうと笑」。この会社で飲食に関するノウハウを吸収するために頑張ったが、1年弱で退職する。「最終的に独立するつもりだったんで、同じ会社にずっといる考えはありませんでした。最初から辞める前提で入ったんです」。次に入社したのは、梅田に本社を構える、コーヒーの輸入専門商社。3ヶ月ほどで店長に抜擢され、その後4店舗を束ねる統括マネージャーに。自らの希望で新規出店を2店舗手がけるなど、華々しい活躍を見せる。
「この会社には5年ほどいました。様々な経験ができたことで、独立が現実的に見えてきました」。退職後、いよいよ独立の準備を始めるのだが、その最中に父親がガンで亡くなってしまう。「7年ほど前から闘病していたので、ある程度覚悟はしていたのですが、飲食店を始める前でよかったです。始めた後だったら立ち上げの時期と重なってたので、葬儀もままならなかったかもしれません」。

流行に乗る前から、パンケーキ。

父の死を乗り越え、2010年に「サクラブルーコーポレーション」を設立。
「社名の由来ですか?サクラは、天満橋は桜の通り抜けで有名だから。ブルーは、僕サッカーが好きなので、サッカー日本代表の愛称、サムライブルーとかけました。『天満橋から日本を代表する企業へ』という意味がこもっています」。そして会社設立から2年後の2012年に心斎橋のアメリカ村にパンケーキ&スープダイニング「elk」をオープン。カフェではなく、パンケーキ。なぜなのか?「最初はカフェで、と思っていましたが、独立前に働いていたカフェのオーナーがアメリカの方で、アメリカで流行しているものを日本に持ち込んでは、僕が作ってお店に出すということをしていたんです。たとえばコンビーフハッシュとか、エッグベネディクトとか。その中のひとつにパンケーキがありました。10年ぐらい前からお店ではパンケーキを出し始めていたんですが、そのときから『これはイケる!』と思ってたんです」。
それでも周囲からは「2、3年で廃れるだろうから、気をつけや」などと言われたという。「周りはそう言うんですけど、自分はそうは思わなかった。仮にブームが去ったとしても、いいものを作り続けていれば、残り続けると確信していましたから」。事前にいろんなパンケーキ店に通い、研究もし尽くした。薄いパンケーキを焼いていたときに売上が落ち始めると、さらに研究を重ねてふわふわのスフレパンケーキを開発し、メニューに投入。すると業績は瞬く間にV字回復した。「当時流行に乗ってアメリカ村周辺に10店舗ほどパンケーキ店ができたんですが、当時からのお店で残っているのは、ウチだけです。売上は平均月600万円ぐらい。家賃が月45万円ぐらいでしたから、10%を切ってるんです。周りと比べて一人勝ち、だったのかもしれませんが、まだまだいってやろう!と思いましたね」。
その後順調に店舗数を伸ばし、現在はパンケーキ店以外にも、念願だったカフェ業態であるBURN SIDE ST CAFEなど、全国に12店舗を展開。うち11店舗は直営店だという。「今後FCもやっていくつもりなんですが、やっぱり飲食店で実績のある会社と手を組みたいです。なによりも、飲食店をやっている者同士で話が合いますから。逆に飲食業をやらず、おしゃれだから、流行だからという理由でFCをやりたいという方の申し出は、お断りしています」。
・・・続き
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