2018年6月12日火曜日

株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ISSEI 代表取締役 浅田一世氏登場。
本文より~

中学でスポーツの名門校に進学。

サッカーで有名な三都主アレサンドロや相撲で有名な朝青龍ともおなじ寮だった。調べればわかるが、ともに明徳義塾に留学。つまり、今回、ご登場いただいた浅田氏も、高知にある明徳義塾出身である。
浅田氏の生まれは京都。小学6年生まで京都で暮らす。中学に進学する際、独り高知に向かい「明徳義塾」に入学する。浅田氏は「海と海、山と山に囲まれた陸の孤島」と表現する。
中学時代は野球に専念していたが、高校で断念。カラテ部に進む。
「だれもかれもスポーツ選手でなきゃだめな学校なんです。私は中学から野球でしたので、そのまま野球部に進もうと思っていたんですが、1週間で心が折れて(笑)。だって、段違いの奴らばかりで。『あぁ、こういう奴らがプロに行くんだな』って。でも、野球部を辞めても、どこかの部に入らないといけない。唯一ウエルカムだったのが、空手部だったんです」。
これが、地獄のはじまり。二度とあの頃には戻りたくない時間がスタートする。

青春の香りは、シャンプーとリンス。

明徳義塾では、ほぼ全員が、寮生活を送ることになっている。むろん、浅田氏も、寮生だ。寮生活は6年間に及ぶ。中学の時は、それなりに楽しかったが、高校に進学してからは、「ヤバイ」の一言だったそう。
「なんていったって陸の孤島です。しかも、きびしい監視下に置かれての生活です。そのうえ、高校に進学する前、食堂から酒を盗んで飲んだことがバレちゃって。要注意人物のレッテルが貼られました」。
要注意人物だったが、かなりの人気者でもあったそう。当然、目立つぶん、上級生からも何かにつけ、可愛がられた。とくに寮の先輩たちは、ひどかった。いろんな先輩がいるなかでも、いちばん悪い奴に目をつけられた。空手部の2年上の先輩。
「ちっちゃかったんです。だから、からかうにはもってこいだったんでしょうね。いまでは、その先輩とも親しいんですが、当時といったら」。
先生たちの監視下に置かれ、先輩たちには、顎で使われたた。それでも、青春の1ページはあった。「洗剤っすね。俺たちの青春は」と浅田氏。「服も決まっているし、恰好つけようと思ってもできるアイテムがないんです。頭はみんな丸坊主だしね。唯一の楽しみが、洗髪の時のシャンプーやリンスなんです。あれのええ奴で、ね。ええ匂いがするでしょ、それが、唯一のおしゃれで」。
実は、禁断の山にも登ったことがあったそうだ。山の上にあるのは、女子寮。どうやっても、侵入できなかったらしい。こちらも青春の1ページ。ブランド物のシャンプーとリンスでキメて、頂をめざしたのはいうまでもない。
ちなみに、奥様も、実は明徳義塾の出身。1つ下らしい。「まぁ、いろいろあった中・高ですが、卒業する時には、さすがにウルウルきちゃいました」。
ところで、浅田氏は、空手でインターハイにも出場している。先輩が目をかけてくれたおかげでもある。「あんだけいじめられたら、そらぁ、つよなりますよ」。
浅田氏はそう言って笑う。卒業することで、たしかに少しだけ、笑い話となった。

肉が食えるんちゃうかな。未来の取締役は、そう思ってバイトを始めた。

「卒業したら駒沢大学に進学する予定だったんです。空手部のルートです。でも、それってヤバイでしょ。だって、そんな大学に行こうもんなら、あの、イヤな先輩たちがいるわけですから」。
それで、進学を断念し、「吉本」に入った。「吉本ってあの『よしもと?』」 「そう、あの『よしもと』です。1年間は関西、2年目に東京進出です。進出っていったって、時々、舞台にでるくらいです。アルバイトしないと生活もままならない。トラジのバイトをスタートしたのは、東京に行って1年が終わろうとしている頃ですね。それまで、どっちかっていうと、アルバイトっていっても独りできるような奴ばかり。だんだんさみしぃなってきて。みんながしているような『ふつうのバイトしてみよかな』って思うようになった時に出会ったのが『トラジ』です」。
貼り紙をみて、ココだと思ったらしい。「何しろ焼肉屋でしょ。肉、食べられるんちゃうかなって」。単純な動機だが、それで人生が決まるのだから不思議なものだ。
「ほんまですね。アレが俺のはじまりですもんね。それから、いうたら、ずっと肉です」。
ちなみに、浅田氏はトラジで取締役まで昇進。代表取締役社長 金 信彦氏の懐刀にもなる。

独立するも、独学でつくったラーメン、マズし。

「トラジを辞めたのは27歳の時です。その時には、取締役で、営業本部長も兼務していました。すると、会議ばっかりで、いうたら、会議室で缶詰です。そんなん、ぜんぜんおもろないでしょ。それで、社長に『辞めます』っていうんです。でも、なかなか辞めさせてくれへんかったけど、ある日、金さんから『飯でも食いに行こうかって、言われて』。そこで『わかったって』はじめていうてもろたんです。だいたい半年くらいかかりましたっけ」。
「それで独立?」
「そう、それで独立です。でも、焼き肉はあかんわけですよ。義理もありますから。それで、ラーメンです。インターネットで調べて、つくったんですが、みんなが『めっちゃマズい』って(笑)」。
「でも、まぁ、客はいないこともなかったんです。とくに深夜は。ただ、『ラーメン』はマズいからだれも食べない。つまみと、酒で、みんなとしゃべりに来て、帰らはるんです。ま、そんなわけですから、赤字です。それで、金さんにも了解してもらって、焼肉屋をはじめます。こっちは、俺のフィールドですからね。失敗するわけはない」。
実は、トラジからの支援はいまも受けている。トラジのセントラルキッチンを利用させてもらっているのは、その好例。1号店には、金氏も出資してくれているそう。
「あれがなければ、独立なんて無理だったですね。いま、資本は50%・50%です。金さん抜きでは、考えられないです。いまも感謝がたえません」。
むろん、金氏の行動は、期待の表れでもあった。しかし、目をかけ育て、独立も支援してきた浅田氏が途方にくれていたことは、どれだけご存知だろうか?
つい3年前、つまり2015年の話である。
・・・続き
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