2015年3月12日木曜日

株式会社MGホールディングス 代表取締役社長兼CEO 松野克成氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社MGホールディングス 代表取締役社長兼CEO 松野克成氏場。
本文より~

高校までの松野少年の話。

松野の父は日本を代表する大手家電メーカーで部長職を務められていたそうだ。「海外勤務ばかりで、日本にいるのはそう多くなかった」という。「厳しい人で、私たちは男ばかりの4人兄弟なんですが、兄弟喧嘩をしようものなら、全員、父親にベルトで叩かれました(笑)」。
怖い父だが、もちろん自慢の父でもあった。「親父は中卒なんです。中卒なのに、家電メーカーの部長まで登り詰めた人です。ほんとうは、もっと上までいけるんだけれど『学歴がないから、部長止まり』と言っていました」。自宅から会社に行く時は、決まって自転車。雨の日も、雪の日も、それで通われていたそうだ。
むろん、家計は苦しくない。祖父がアパートを経営していて、そちらに住んでいたから尚更だ。とはいえ「昔のアパートでしょ。すきま風が吹いて、寒かった」と松野は笑う。
何度も日本と海外を行き来し、部長にまで昇格したエネルギッシュな父だったが、ある会議の前に突然、心不全で倒れ、亡くなってしまった。
松野、16歳。父はまだ52歳だった。
「突然、親父を亡くしたわけです。母親も心の整理がつかなかったのでしょう。何年も泣きつづけていました。私たち兄弟はそれぞれ『なんとかしなけりゃ』と思って、私もすぐに『退学を』と考えました。でも、親父が学歴で苦労していたでしょ。だから母親が、『せめて高校は卒業して』と。それで、奨学金を受けてなんとか卒業することができたんです」。
学業にもちゃんと向き合ったし、クラブ活動にも手を抜かなかった。「中学では野球をやっていたんです。でも、高校ではサッカー。最初はリフティング一つできなかったんですけどね」と笑う。
ただ、負けずキライでもある。すぐにどこかに飛んでいってしまうボールを何度でも拾いつづけた。ジブンだけではなく、同じ未経験たちを募り、一緒になってトライした。「そしてみんなで、県大会に出場するまでになったんです」と松野は誇らしげに言う。
これは、高校時代の一つの勲章。
「努力は、報われる」。松野は、そう心に焼き付けたに違いない。

独立したばかりのラーメン店で、修業開始。

「もともと独立しようと思っていたんです。それに、父を亡くしてからは貧乏だったわけで、母への仕送りと、兄弟の生活費を考えたら『月に100万円はいるな』と計算したんです。『月100万円』、独立するしかないでしょ」。
しかし、急ぎはしなかった。「住まいの近くのラーメン店に転がり込みます。『修業をさせてくれ』と。最初は、断られました。オープンしたばかりだったし、正直、お客様も入っていなかったから(笑)。でも、『無給でもいいから。ラーメンだけ食べさせてくれたら、それでいいから』と言って雇っていただいたんです」。
「全然、ダメでした。私じゃなく、店のことです。スタッフは、店主と店主の奥さん、そして私の3人です。それで、日商4~5万円。いくら全員無給で、人件費はかからないと言っても、さすがに4~5万だときつかったと思いますよ」。ただ、店主も若く、松野はそれ以上に若かった。2人して熱心に味を改善した。
数年経った時には、店の前には列ができていた。「味が、良くなったんです。それだけで、最初の頃の数倍の月商を達成したんです。当時の月商は700万円です。毎日、列ができていた証拠です。お客様が来ない時に、店主も、私も相当、研究しました。この体験が、私の強みともなっていくんです」。ラーメン店、1店舗で月商700万円。相当な売上である。
もっとも松野の給料は、月商700万円の時でも20万円弱。そのなかから母に12万円くらいを渡していた。給料は少なかったが、今も店主には感謝している。勤務したのは計4年。店主とともに、最高の一杯を追いかけた日々だった。

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