2015年3月24日火曜日

株式会社アクティブソース 代表取締役 金子 源氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アクティブソース 代表取締役 金子 源氏場。
本文より~

お金を払えず、幼稚園、中退。

金子源は、1976年8月5日 群馬県新里村(現、桐生市)に生まれている。兄弟は7人で、金子は下から2番目。子沢山の両親は鉄工所を経営していたが、オイルショックで会社を解散。金子が物心ついた頃には、「赤貧」という言葉がぴったりな生活だったそうだ。
住まいは、プレハブ小屋。風呂はもちろん薪で炊き、便所も、俗にいう「ボットン便所」である。アウトドアで楽しむならいいが、いうまでもなく我が家である。電気やガス、水道は通っていたが、それも数ヵ月に一度、止められた。「水道を止められても、メーター横の蛇口を開けたら水は出るんです。でも、何度も繰り返すと今度はメーターを外される。そうするともう水はでない。で、今度はどうすると思います? 地面を掘ってバイパスでつなぐんです」。まさにサバイバルだ。
「私は、幼稚園を中退しているんです」と金子は勲章であるかのように言って笑う。代わりに小さな頃から畑仕事や、父が解散後も細々と続けていた鉄工所の仕事を手伝った。当時、ファミリーコンピューターが流行っていたが、金子がコントローラーを手にしたのは「2~3回だけだ」と言う。それでも、すねた様子はない。将来の目標は何でした?と伺うと、「金持ちになること」とためらいのない声が飛んできた。

天才、かもしれない。

中学に上がっても生活はかわらなかった。代わりに、新たな勲章ができた。勉強がやたらできたのである。「勉強はする暇もないし、実際、全然しなかったんですが、テストの結果はつねに学年5位以内。通知簿はオール『5』でした」。周りは、天才かもしれないと思ったはずだ。
それでも父親の手伝いは続いたし、畑仕事も続いた。「しいたけ」のバイトにも精をだした。時給換算すれば200円にもならない時もあったが、それも貴重な収入源だった。たしかに勉強をしている暇はない。
ともかく、金子の話を聞いているとたくましい生活力を持った少年像が浮かび上がる。
生活力があり、成績優秀な金子少年は、県内でも有数の進学校に進み、「いずれ東大へ」というレールに乗ることになる。

めざすは、東京大学。

クラスの半数が東大をめざすような学校だったから、当然、金子もそう思っていた。「でも、高1まで」と笑う。「上には上がいることを初めて知った」のもこの時だそうだ。
「それで、楽しくやろうと思って」。とある本にも影響を受けたそうだ。「遊びまくって、予備校に行くって内容で、純粋にそうかと思って実践しました(笑)。高校卒業後、きっちり新聞配達の奨学生となって予備校に行くんですが、こちらでも遊びまくり。結局、東大はおろか、大学進学もあきらめなければならなくなりました」。
大学進学を断念したのは、「パイロットになろうと思った」ことも関係する。しかし、パイロットになるための倍率は大学進学よりきびしい。4900人が受験して、合格するのは70人。つまり70倍の狭き門。
「これが、なんと合格するんです。でも、入隊の直前、新聞配達の最中に事故に合い足首を粉砕骨折。夜行列車で山口まで行き入隊検査は受けたんですが、最終関門でアウト(笑)」。
次年度も果敢に狙おうとしたが、年齢制限に引っかかってしまったそう。
「それで、もう一度、予備校に行きましたが、7月に一般隊員として海上自衛隊に入隊しました。海上に思いを馳せたんですが、私が配属されたのは市ヶ谷。オペレーターという仕事ですが、まぁ、雑用係のようなもんです。なんだか、ガッカリでしょ」。
一時は、東大に入学し、エリートコースに乗るはずだったが、いつの間にか片隅に追いやられた感じである。市ヶ谷の次には、六本木の防衛庁に異動。24時間勤務し、開け休みもいれて3日間休み。「手取りは12~13万円。休みが多いから全部、飲み代で消えてしまいます。昇級試験も受けたんですが、勤務態度が悪かったからか、全然通らない。そのうち、鹿児島にある喜界島に異動になるんです」。「なんにもないところで。できることといったら飲むぐらいですね」。その喜界島で、自衛隊を退職を決意することになる。

・・・続き

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