2015年2月24日火曜日

有限会社アペタイト 代表取締役 飯野雅司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社アペタイト 代表取締役 飯野雅司氏登場。
本文より~

八百屋の長男。

「八百屋」の主人と言えば、愛想も、元気もいいのだが、大抵体格がいいからか、怖そうなイメージもしなくはない。今回、ご登場頂いた有限会社アペタイト代表、飯野雅司氏の父もそうした八百屋の主人だった。
「私が生まれたのは1961年、昭和36年です。兄弟は3人で私は長男。親父は、長男の私を跡取りに考えていたんだと思います」。
小学校の時も、学校から帰ると兄弟みんなで店を手伝わされた。怖かったから、親父には刃向えない。「内心、嫌だった」と飯野氏。「特に、夏は暑いし、冬は寒い。たまに飲食店に野菜を届けに行く時があるんですよ。すると店内は、夏は涼しいし、冬は温かい。あの頃から漠然と飲食店はいいな、と思っていた気がしますね(笑)」。
勉強も出来たし、スポーツも出来た。「まぁ、いい子だったよね、店の手伝いは良くするしね。でも、反動が来ちゃったのよ」。

父親という存在からの脱出。

「高校進学の時の事です。親父も『いい』って言うもんだから、千葉にある全寮制の高校に進学しました。本心は言わなかったけど、『これで店の手伝いから解放される』って思っていました。それなりの進学校だったしね」。
高校では空手部に入る。子供の頃から剣道、卓球、バレーと、スポーツはだいたい何でも出来た。だから、空手もすぐに巧くなった。心も解放された。何しろ、親父の目が届かない自由な生活である。
「それまでの反動だろうね。でも、好きにし過ぎて停学3回くらいました(笑)。4回目は無かったな。退学しちゃったから」。
退学したのは、高校2年の夏の事。
「高校を辞めてすぐに中学時代のツレに紹介して貰った中華料理店で住み込みで働き始めました。給料は確か月7万円位だった」。
手取りも少なかったが、貰った回数も又少なかった。
「親父が店に来てさ。店主と話をつけて、退職する事になったんです。親父は、八百屋を継がせたかったんだろうね。でも、私は嫌だった。八百屋と言うのも嫌だったし、何より親父に支配されたくなかった。だから、家には帰らなかったんです」。

新宿の街を闊歩する。

「どこでもいい」と思って、歌舞伎町にあった蕎麦の店に飛び込んで運よく雇ってもらった。「でも、タイミングが悪くてさ。熱を出して3日で辞める事になっちゃった」。
その頃にはもう新宿のアンダーグランドに足を踏み入れていたのかもしれない。職は無いが、食べるには困らなかった。風を切って、新宿の街を闊歩した。
「そんなある日、たまたま、職務質問で引っかかってさ。それで、親からも『校正させてくれ』って事になって…」。
半年間くらい、今までの人生を振り返る機会(チャンス)を与えられた。
「その頃になってようやく、親父の言う事は聞かないといけない、と思うようになったんです。申し訳ないな、とも初めて思うようになって」。
「父親の知っている社会教育のとあるセンターに出向きました。すると『東京はまずい!九州に行け』と指導されて、大分にある、親父も知っている教育機関に行き3年間過ごしました。こちらで高校の単位を通信教育で取得しました」。
あらぬ方向に向かっていた時計の針が、元に戻される。「向こうでは、色んな会社の社長が来られてね。直接、話をして貰ったりしていたんです。それが、独立のきっかけになったかも知れませんね」。
ともかく3年間、全うして卒業した。紆余曲折もあったが、ある意味、高校を合計6年かけて卒業したと思えばいい。

 
・・・・続き

有限会社アペタイト 代表取締役 飯野雅司氏

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