2015年1月14日水曜日

賛否両論 店主 笠原将弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”賛否両論 店主 笠原将弘氏登場。
本文より~

大人びた少年、笠原。

おばあちゃん子だった。今回、ご登場いただく笠原の子ども時代の話である。「両親が焼鳥屋を経営していたものですから、父も母も忙しくって。それで、私は祖父母の家に預けられて育ちました」。
「子どもの頃から大人びていた」というのが笠原の少年時代の自己評価だが、それも、おばあちゃん子の証かもしれない。時代劇や落語を楽しんだ。これはまさに祖父母の下で育った影響である。
授業では、国語と日本史が好きだった。一方、理数系の科目には関心が無かった。好きではないものには、関心が向かないタイプだった。
とはいえ、中学では学級委員長も生徒会長もやった。好きだからなったわけではなく、なり手がいなかったから。このあたりも大人びていた証である。
小学6年生からバレーボール部に入部。小さい頃から高かったという身長を活かして、中学でもバレーボール部員として活躍。ムードメーカーも買って出た。そういう性格だった。
このバレーボールは高校まで打ち込んでいる。
「お店が忙しい時には手伝いました」と笠原。ただ、店を継ぐという意識はそれほど無かった。とは言え、大学に行ってサラリーマンになるというイメージも全く持てない。進路について、料理人である父に相談したことがある。

父に問いかけた、就職相談の話。

「パティシエのワールドカップがテレビで放映されていまして。それが『格好いいと思った』と父に話たんです。そしたら、『それもいいが』、ということになって」。
父にすれば、同じ料理人でもフィールドが異なった。だから、「パティシエも格好良くていいが、日本料理はどうだ」という話になった。
小さな頃から父の仕事を観てきた笠原である。仕事をしている父の姿に何度も目を奪われたことがある。
「日本料理はどうだと言われて、改めてそうだ日本料理も格好良いなと思い直しました。そして、素直に『そちらの道に進みます』と」。
その言葉を聞いて父は、内心微笑んだのだろう。
「日本料理だったら一流の店を紹介する。そして就業をするのなら厳しい店のほうがいい」と息子の決意に、早速応えた。
一流且つ厳しい。どちらにも符合する名店をすぐに探し出した。その店が、「東京吉兆」である。
かくして笠原の「吉兆」時代がスタートする。


・・・続き

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