2014年9月2日火曜日

おけいすし 店主 鈴木正志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”おけいすし 店主 鈴木正志氏登場登場。
本文より~

義理の母と鈴木と。

寡黙な飴づくりの職人だった。鈴木の父の話である。 「小学校4年生の時から、絵の教室に行かせてくれて、算盤も習わせてくれた」と鈴木。寡黙だが、優しい父親像が想像できる。
鈴木家は、父と母と鈴木と妹の4人家族。ただし、鈴木と血が繋がっているのは父だけだった。長いこと知らなかった。
「薄々、気付いていたんですが、小学校5年生の時、飲んべぇの叔父さんに、『おまえのお袋は、本当のお袋じゃないんだぞ』と言われたんです。別に動揺することもなく、やっぱりそうなんだと。あまりにも妹と自分への態度が違ったんです。でもね、血の繋がった弟がいるとも言われ、そちらには驚きました。それ以前は、弟とは露知らず、顔も合わせていたし、『兄弟じゃないのに似ているな』って言い合っていたんです」。
叔父の話によれば、2歳下の弟が生まれた時に実の母は亡くなり、小さかった弟は畳屋を営む親戚の家に養子に出されたそうだ。それから、義理の母がやってきて、妹が生まれたとのことだった。
「弁当だって、中身がぜんぜん違うんです」と、鈴木は振り返る。「妹の弁当には豪華な料理が詰まっているのに、私の弁当にはノリ、米、梅干しだけ。寝ている時にも、わざと足を踏まれた覚えがあります」。
子どもの感覚は鋭い。日々の小さな事柄から、真実を見抜いていた。もっとも、推測が正しかったからといって、嬉しいものではない。

運動神経抜群の少年、鈴木。

「あのまま野球を続けていたら…」と未練を持ったことはないのだろうか。
中学校は公立だったが、県大会に必ず出場する野球の強豪校だった。鈴木は2年目にしてレギュラーとなる。
「当時は、ベビーブームって言うくらいで、とにかく子どもが多かった。うちの学校でも1クラス60人で、それが12クラスもあった。野球部の人数も凄かった。だから、私らの世代はとかく競争意識が強かったんです。小さい頃から競争にさらされてきたわけですから」。
その競争に勝ち抜き、2年目からレギュラー。とにかく運動神経がいいから、監督からも目をかけられていたはずだ。
「ところが、中学校3年生の時、義理の母が病気になりました。いまほど医療も進んでいない時でしたので、お金もかかって…。たいそうなお金を注ぎ込んだらしいですが、結局、2年後に亡くなってしまいました」。
義理の母との別れ。涙は一切出なかったという。
しかし、義母が病にかかったことで、鈴木も安穏としていられなくなった。
「高校でウェイトリフティング部に入ったのは、家の仕事を手伝わないといけなくなったからです。ウェイトリフティング部は、唯一、マネージャーとして入部させてくれたので時間的に色々と融通が利くと思いました」。
ところで、その部の先輩には東京オリンピックのウェイトリフティング、金メダリストである三宅義信がいた。・・・続き
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