2014年9月9日火曜日

株式会社馬喰ろう 代表取締役社長 沢井圭造氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社馬喰ろう 代表取締役社長 沢井圭造氏登場。
本文より~

商売人の祖母に育てられて。

子どもの頃からヤンチャで目立ちたがり屋の、人気者だった。小学4年生から始めたサッカーにハマり、将来はサッカー選手を目標にしていた。
中学では副キャプテン。強豪校も多い千葉でベスト4に入ったこともある。市の選抜にも選ばれた。勉強は得意じゃなかったが、スポーツは何でもできた。
商売も上手かった、と沢井。小学校の頃から空き缶・瓶などを集めて小銭を儲けていた。小学生にとってはバカにならない額になったそうだ。スポーツの才能だけではなく、商才もあったことを証明するエピソードである。
もちろん、別に小遣いはもらっていた。だから、何かが欲しくてというよりは、楽しみの一つだったかもしれない。
商才は、親族にもまれ、育まれたところもある。親戚の大半が商いをしていたから、集まれば商売の話になった。子どもながらに耳をそばだてていた。
さて、沢井が生まれたのは1976年。4つ上に兄がいて、6つ下に妹がいる。沢井家は、両親ともに忙しかったそうで、兄弟は全員、かぎっ子だったそうだ。
「うちは、祖母が、いろんな飲食ビジネスをしていまして。『寿司』とか『とんかつ』とか『洋食』など、ですね。で、私たち兄弟は、この祖母から良くビジネスの話を聞かされました」。
話は飛ぶが、いま兄の沢井亮祐氏が経営する、株式会社NTC・デリパも、もともとは祖母が始めたビジネスである。
「商才のある人でした。いまのビジネスも、あることがきっかけでスタートするのですが、それまでのビジネスをすべて売って賭けに出ました。それだけ先がみえていたのでしょう」と沢井。
ともかくかぎっ子で両親の目から離れ自由奔放に育った沢井の、唯一の錨でだったのは、この祖母かもしれない。

ジブン、探しの旅。アメリカに出発。

サッカーに打ち込んだ少年時代。サッカーと距離を置いたのは、高校2年になってから。チームワークが成り立たない。選手一人ひとりは上手いのに、かみ合わない。みんなが明後日の方向をみているからだ。チームワーク、ゼロ。そういうチームにいたくなかった。これが、サッカーを辞めた真相である。
もしかすれば、アメリカへ、と思った理由の一つであったかもしれない。
高校を卒業すると沢井は、フリーターとなり、バイトに精を出した。アメリカへ向かうためだった。
「祖母の会社があったので、心のどこかで、安全パイがあると思っていたかもしれません。でも、それはいま思うことであって、当時は、何をするのかをちゃんと考えようと。考えるなら、アメリカで。そう真剣に思って、軍資金のためにフリーター生活に突入するんです。とはいえ、1年で50万円しか貯まらなかったんですが(笑)」。
19歳。とにかく沢井は、日本を抜け出した。
頼りは、貯蓄した50万円と祖母に頼んで貰えることになった月5万円の仕送りのみ。

O-157、発生。「帰国せよ」。

「向かったのは、サンフランシスコでした。親戚がいたからで、計画では5年ほど語学留学をするつもりでした。祖母に5万円の仕送りを頼んでいましたが、それだけではもちろん足りないので、鮨屋でアルバイトをしながら、学校に通っていました。結局、向こうにいたのは、1年半くらいです。まだまだ滞在するつもり満々だったんですが、祖母から帰国するように、と指令が下ったわけです(笑)」。
指令が下りた背景はこうだ。当時、カイワレ大根からO157が発生して社会問題になった。「生(ナマ)は、何でもかんでもダメだという話になって…。牛・豚・鶏はもちろん馬の生食まで売れなくなってしまったんです」と沢井。
3000万円くらいあった月商が、とたんになくなった。
「それで、もう5万円も仕送りできないという話になって。社長が兄を手伝え、と」。
「あの事件がなかったら…。そうですね、あの当時、アメリカの雑貨を日本で広めるようなビジネスを考えていたもんですから、そちらをやっていたかもしれません」。そう言って、沢井は、当時を振り返る。話を聞き、帰らないという選択肢は、なかったようだ。
「良くケンカした兄ですが、兄が困っていたら、放っておけないでしょ。兄だけに責任を押し付けるわけにはいかないし…」。
帰国。
少しだけ、問題が鎮静化していた。・・・・
株式会社馬喰ろう 代表取締役社長 沢井圭造氏
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