2013年11月5日火曜日

株式会社一真 代表取締役 吉原慎太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社一真 代表取締役 吉原慎太郎氏登場。

本文より~

野球と吉原。

小学生の時は4番打者。中学では2年からレギュラーとなり、1番打者を任される。高校野球の名門、横浜商業に入り、ふたたび1年の秋からレギュラーに抜擢された。町内の野球チームから始まった吉原の野球人生は、急角度の登り坂を猛烈なスピードでかけ上がるような人生だった。
「中学は公立だったんですが、とにかく強豪チームで、野球をするために進学する生徒もいたほどです。それから、横浜商業に進み、ふたたび野球漬けです。私1人が抜擢され、1年からレギュラー。プロのスカウトにも注目されていましたが、私自身はどこかで葛藤していたんです」。
とくに野球が好きだったわけではない、と吉原。好きじゃないから、練習もキライだった。それでも、才能に恵まれていたからだろう。どのチームに入っても先頭を走らされた。ところが。
「高校3年生の春の選抜の前にケガをしてしまいました。打球が足に当たり骨折です。ただ、足だけではなかったんです。腰も、肩も、もう限界だったんです」。1年からレギュラーに抜擢されたことがかえって、選手生命を縮めたのではないか、と分析する。期待値を裏返すように、吉原には猛練習が課せられたからだ。
「400人の選手がいて、グランドに入れるのはたった20人。みんな中学の時に注目されたような奴ばかり。幸い、私は1年目からレギュラーとして20人のなかに入るんですが、結果として、周りの仲間にねたまれ、また嫉妬されていました。ただ、3年間でからだがボロボロになったのも事実。そのなかには、横浜ベイスターズに1位指名された選手もいました」。
プロにいちばんちかい、そう思われていたとしても不思議ではない。ただ、本人は、「周りの期待に応えることだけで、野球をつづけていた」という。だれよりも野球というスポーツに愛されていた吉原は、野球というスポーツをそれほど好きになれない自分に戸惑っていたのではないか。
「いま思えば、後悔です。ケガをしたことではなく、もっと真剣に野球をして、もっと好きになっていれば良かったという意味で」。

ボロボロのチームを全国3位に。

一つの勲章だと思う。吉原の専門学校時代の話である。 「ノンプロにも、大学にも進む気がなくて、当時流行っていたTVドラマに触発され、観光の仕事に就きたいと、2年制の専門学校に進んだんです。もう野球をやるつもりはなかった。でも、入学してみたら専門学校なのに軟式ですが野球部があったんです(笑)。もちろん最初は、知らんプリを決め込んでいました。ところが先輩の1人が私のことを知っていて。1度でいいからグランドに来てくれと、毎日、毎日誘ってくるんです。根負けして、グランドに立ちました」。
それが、ふたたび白球を追いかける日々の始まりとなった。
「でも、所詮といってはなんですが、軟式だし、高校時代と比べると話にもなりません。成績はボロボロで、弱小チームの代表校みたいなもんだったんです。監督も素人でした。ただ、私は『やるからには、ちゃんとやろうよ』と。専門学校にも甲子園ではないですが、大会があって、優勝戦は東京ドームで行われることになっていたんです。それで、東京ドームをめざそう、と」。
練習メニューもすべて考えた。東京ドームへ。全員をおなじ方向に向けることにも苦労したはず。
だが、結局、みんな野球が好きだったのだろう。名門高校から進学してきた一流プレイヤーの投げる球、打つ球をみて、勇気と希望を得たはずだ。まだまだオレたちにもできると。
「正直に言いますと高校の時は、チームワークなんてない。オレが、オレが、です。でも、それぐらいでないと務まらない。ギスギスしていたし、嫉妬も、ねたみもすごかった。ところが、専門学校での経験はまるで違います。負け惜しみではなく、野球がこれほど楽しいもんだとはじめて知りました。いつの間にか、東京ドームが合言葉になって」。
チームを束ねた。監督の代行で、指揮も執った。エースをキャッチャーにするなど、改革も断行する。それでも、みんながついてきてくれた。東京ドームという目標もあったし、吉原にみんなみせられていたからだ。
結局、2年時の大会で、全国3位になる。「惜しかった。あと一つ勝っていれば東京ドームだったもんですから」。でも、それもいい、と話を聞いていてそう思った。なまじ目標が達成されるよりも、いい経験ができたのではないかと思ったからだ。あと一歩の悔しさは、勝利とは違った意味で、少年たちを成長させるからだ。
むろん、吉原の胸のなかにも一つの勲章が飾られたはずだ。
・・・・続き
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