2023年8月19日土曜日

働く社員がもっと充実するため、社員福利厚生に1つプラスを。

 働く社員がもっと充実するため、会社の福利厚生に映画やドラマ、アニメも見放題の『Netflix (ネットフリックス)』付けよう。

流行ってるもの、トレンドも知らないとな。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2023年8月14日月曜日

「AOYA CAMPAGNE(アオヤ カンパーニュ)」。

坂東太郎様の子会社の蛸屋の新店舗AOYA CAMPAGNE(アオヤ カンパーニュ)」(JR小山駅から車で約10分の国道50号線沿い)に行ってきました。
こちら、隈研吾氏が設計され、あんこへのこだわりが一貫した和菓子販売とレストラン融合店舗です。

あんこシェイク

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

「かすうどん男」、取材しました。

先日、クリーンライフ大野社長のご紹介で龍ノ巣ホールディングスの畑博貴社長に飲食の戦士たちの社長取材を東京のR GINZA LAB.にてさせて頂きました。
1時間30分では足りず、後は「かすうどん男」を読ませてもらいましたが、取材の時も大変共感しましたが、書籍読んで改めて人への思いやり、『愛』に対する想いに感動しました。
早速、その“かすうどん”食べたくなり、新宿三丁目店に店舗の接客含め行ってきました。
本当に美味しかったな。
記事はこれからですが乞うご期待ご期待ください。
かすうどん

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2023年8月11日金曜日

年齢重ね、益々健康に・・・・。

周りが安心して働くためには経営トップがなんといっても元気でないとダメです。

キイストンは「元気発信企業!」と商標取ってることもあり、この歳までなんの薬も飲まなく身体だけは元気で、さらに健康になってます(笑)

妻に感謝です。

2023年8月10日木曜日

「週休3日制」。

「週休3日制」流れがそうなってきてますね。
そういえば今から25年以上前にキイストンでは求人広告で週休3日制導入と出しました!
当時の求人誌Bingにて最小のサイズで営業未経験者の人材採れました!
でも、給与面が低いから通常の週休2日に入社時からなり、幻の週休3日制でした(笑)
時代が追いつかず、だいぶ早かったです…。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2023年8月9日水曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 波多野 潤氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 波多野 潤氏登場。

本文より~

スポーツ推薦で、難関を突破する。芸は身を助く。

附属高からの大学への内部進学ができたとしても成績的には夜間しかなかったと波多野氏。内部進学率は9割あったそうだが、そのうちの数%は夜間に進学ということだったらしい。ところが一転、救いの制度が始まって、なんと法学部に進学している。
中央大学の法学部といえばエリート中のエリート。仲間からも大ブーイングが起こったと笑う。
その救いの制度とは、この年スタートしたスポーツ推薦のこと。波多野氏はその一期生として、まんまと中央大学法学部に進学することになる。
もっとも大学時代は、楕円形のボールと一緒に走り続けた4年間だった。
「アメリカンフットボールを始めたのは高校時代。実はラグビーをやりたかったんですが、進学した中央大学の附属高校にラグビー部がなかったんです」。
日本ではラグビーの方がどちらかといえばポピュラーなスポーツにもかかわらず、アメフト部があってラグビー部がない高校があったというのは驚き。
「部員は総勢70名程度で、同期は20名程度。私は2年からレギュラーになります」。
高校時代には全国大会で2度決勝まで進んでいる。このチームで、「低く、速く、強く」というアメフトの基本を叩き込まれたそうだ。
大学でのチームポリシーは真っ直ぐ。部則では、20歳になっても意外にも禁酒・禁煙だったらしい。
アメリカンフットボールと聞くとグラウンド外でも華やかで、ジョッキをにぎれば煽るように豪快に飲む、といったイメージだったが、改めないといけない。
いずれにしても、スポーツ推薦のおかげで難関を突破。芸は身を助くとは、まさにこのことだ。

アメリカンフットボールとキリンビール。

波多野氏は1976年、東京都武蔵村山市に生まれている。「足が速くて運動が好き」な少年だったらしい。スポーツは野球とサッカー。習い事は結構やっていて、小学3年から4年にかけピアノも習っていた。
「中学ではバトミントン部に入ります。塾があったんで、ゆるい部活を選びます。ただ、都大会まで進んでいます。高校は中央大学附属高等学校に進学します」。
そこでアメリカンフットボールと出会うわけですね?
「そうです。それから大学、社会人と14年間現役を続けるわけですから、不思議な縁と言いますか」。
奥様もチアリーダーというから、縁は縁を呼ぶ。
「現役を卒業してからは、9年間母校でコーチをやります」。
2003年、選手として所属する社会人チームの大会の決勝で宿敵アサヒビールを打倒。グラウンドが歓声に包まれた。その記憶はお金に変え難い財産の一つ。
アメフトと社会人の二刀流ですね。ところで、キリンビールに入社されますが、第一志望だったんですか?
「結果的にはそうなります。私自身、アルコールは苦手だったんですが、ビールは人の喜怒哀楽に寄り添う、そういうイメージがあって。競合も4社でライバルが明確という点にも惹かれました」。
アサヒ、キリン、サッポロ、サントリーですね?
「私はキリンともう1社から内定をいただきました。キリンは紳士的でもう1社はフレンドリー。最初はもう1社に魅力を感じていたのですが、内定が決まるとだんだんとフレンドリーさがなくなって(笑)。強烈な囲い込みが始まって心が離れます。その一方で、キリンは常に親身になってくれて。『ビールで人の人生に寄り添いたいと言ってませんでしたか』って。初心を思い出させてくれるんですね。あぁ、そうだったみたいな(笑)」。
ビールといえばもちろんキリン。祖母のアドバイスも効いた。「せっかく天下のキリンから内定をいただいたのに、なんでそんなに悩むんだい?」
もっとも祖母にとっては天下のキリンビールだが、もはやガリバーではなくなっていた。2023年現在も、キリンとアサヒでシェアの争奪戦が繰り広げられている。

キリンビールというフィールドを駆ける。

ビール事業の同期は60人程度、うち営業は30人くらいだった。波多野氏は西東京支店に配属されている。「仕事では酒屋さんや地元のスーパーを回ります。当時の西東京支店はキリンビールの中でも売上No.1を誇る大きな支店でした」。
担当エリアは八王子、町田、立川、多摩、稲城、日野と広い。アメリカンフットボールで鍛え抜いた体で駆け回る。もちろん、前述通り社会人になっても7年間は現役を続けている。
入社後の経歴を追うと、1999年4月、キリンビール株式会社に入社。翌年3月、西東京支店に配属。2005年1月、株式会社キリンコミュニケーションステージ量販事業本部 首都圏量販東京1エリア SMGに就任。2006年にはキリンビール 広域販売推進統括本部販売推進1部に異動。モンテローザ、すかいらーくグループ、HUB、グローバルダイニングなど、錚々たる企業を担当する。ちなみに、モンテローザは社内公募にチャレンジして担当になったそうだ。当時、モンテローザは1500~2000店に拡大する時期だったという。拡大期をサポートした波多野氏だけに、今でもグリップは強い、つよい。
「2010年に近畿圏統括本部で担当部長に就任します。2014年にはマーケティング部に異動になり、宣伝担当メディアグループリーダーに。そして、2018年10月に九州統括本部 沖縄支社長に抜擢いただきました」。
沖縄ですか、いいですね?
「毎年家族で行くくらい大好きだったんですが、仕事ですから空港を降りたとたん戦闘モードです(笑)」。
マリンブルーの海よりも、琥珀色のビールを追いかけた。
「今もそうですが、沖縄っていったらオリオンビールですからね。キリンビールっていったって、なんだそれは…って(笑)」。
酒は泡盛と一緒なんだろうか。
「部長職は経験していましたが、沖縄支社長になって初めて組織のトップに立ちます。部下は30名程度。ほとんど沖縄県出身者です。シェアは先ほどいった通り、オリオンビールが圧倒的でキリンビールは20%くらいでした」。
ミッションは、もちろんキリンビールのシェア拡大。ただし、オリオンビールの牙城はそう崩れない。「3年後の2021年、九州流通支社長に任命されます」。

・・・続き

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 波多野 潤氏

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2023年8月2日水曜日

株式会社ジュネストリー 代表取締役 東明 遼氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ジュネストリー 代表取締役 東明 遼氏登場。

本文より~

有言実行。100万円はその証。

祖母が経営する飲食店を手伝っては駄賃をもらった。これが飲食の始まり。
兄弟は4人。東明社長は次男で下に2人弟がいる。兄の影響もあって中学まで野球をやっていた。グランドで暴れながら、この時すでに飲食で独立するという思いを口にしている。
高校に進学すると早速、寿司店でアルバイトを開始。高校卒業時には100万円が貯まっていたというから驚く。「野球しか知らなかったので、お金の遣い道を知らなかった(笑)」とのこと。
むろん、独立という目標が頭にあったからで、そこはぶれてはいない。
「祖母の影響が大きかったと思います。子供の頃に父の給与明細を見たことがあって、男っていうのはこれくらいは稼がないといけないんだなと。それが、私のなかで独立に置き換わったのかもしれませんね」。
長男は大学に進み、留学も経験する。「最初は調理の専門学校に進みたかったんですが、高校時代に両親が離婚したこともあって。兄にも結構お金がかかったのを知っていましたから、それ以上負担をかけたくなかった。それで、高校3年から始めていた居酒屋さんに就職します」。
それにしても大人びている。口先だけではない。有言実行。100万円はその証に違いない。

22歳、念願の1号店を出店する。だが…

毎月通帳に8万円、10万円と入金される。「通帳にお金がたまっていくのをみて頑張れたと思います。社会人になっても地道に貯金して、22歳の時には600万円は貯まっていました」。
独立資金ですね?
「そう。22歳の時にそれを開業資金にして、居酒屋をオープンします。特別な理由はなかったんですが、大学に行った仲間が卒業する年齢でしたし、店長になっても給料が思ったよりも上がらなかったこともあって。(笑)」
心は決めたが、不安と希望が混じり合う。
最初は、鶴見に出店されたんですよね?
「そうです。駅徒歩8分。駅の商圏としてはギリギリですね。12坪で16席。家賃は12万円。16時にオープンして、深夜2時まで営業していました。40万円程度の給料が取れていたので、悪くなかったですね」。
中学時代から思い描いた念願の店。
「ただ、私はそれなりの給料を取ることができても、一緒に始めた後輩には十分な額を渡せていませんでした。それで、平和島の駅から30秒の立地に2号店をオープンします。こちらは9坪26席、家賃30万円です」。
9坪で26席はかなり詰め込みましたね(笑)。
「そうですね。立地を考慮して(笑)。こちらでは初めて銀行の融資も受けています。スケルトンからやり直し、700万円と投資もかかりましたが、結構うまく行ったように思います」。 普通なら3号店!と勢いづくところだが、東明社長が平和島に注力すると鶴見の店の質が低下したという。歯車がかみ合わない。 「結局、その店を任せていた後輩と仲違いをしてしまって。彼に業務を委託してその店を譲ります。2年の契約で、それ以降は所有権も渡すんですが、コロナ禍になって見に行くとクローズしてしまっていました」。 1人でやるなら、なんとでもなる。仲間とやると、そうはいかない。しっぺ返しをくらうこともある。どうなっていくんだろうか。

鶏ヤロー蒲田店、オープン。

「色んなことに限界を感じたのも事実です。若く社会を知らなかったからかもしれません。ただ、高校時代を含め、飲食の世界ではベテランです。比較検討もしてみます。就職した居酒屋の店長時代には月商800万円は軽く叩き出していたんです。それと比較すると、このままでは、と思って」。
それで、フランチャイズに加盟されることになったんですか?
「そうです。まず経営を安定させたいという思いが強かったもんですから。それで、色々な会社を比較検討し、加盟したのが『鶏ヤロー』です」。
鶏ヤローの経営者、和田成司社長には「飲食の戦士たち」にすでに登場いただいている。ハイボールが50円にも驚かされたが、当時の加盟金は50円、ロイヤリティも50円。何かが間違っているのか、と何度も確かめた記憶がある。
「鶏ヤローのFC1号店が、うちの鶏ヤロー蒲田店です。23坪で52席。家賃は36万円でした。ロイヤリティは50円、加盟金も50円。そんなフランチャイズの話は初めて聞きました。ただ、いくらロイヤリティが安くても、ハイボールも嘘じゃなく、50円ですからね。どうやって利益を出すんだと、不安がなかったといったら嘘になりますが、丁寧に説明してくださる和田社長の言葉に納得してスタートします。業態以上に和田社長に惹かれたのも事実です」。
鶏ヤローは、呑んべぇにありがたいセンベロ業態ですね?
「そうです。ただ、呑んべぇというより学生とかかな。何しろ安いし、ボリュームも半端ない。唐揚げドン!みたいなね。で、うちは蒲田ですからサラリーマンです。客層が違ったからでしょうか。計算が狂います。試算では月商340万円行くはずだったんですが(笑)」。
どれくらいだったんですか?
「オープンして2年近く、アベレージで250万円」。
90万円の違いは大きいですね。
「角ハイボール、50円には抜群の破壊力がありましたが、さすがに50円ですからね、逆に『なんで?』みたいな(笑)」。
起死回生のため、オープンした「鶏ヤロー蒲田店」はカツカツ。自社ブランドの平和島店があったからかろうじてなんとかなった。商売はやはり難しい。
東明社長に一番大変だった時期は?と聞くと、この頃だという。業績云々ではなく、採用した3人の社員のうち2人が辞めたから。
「2人とも深夜まで仕事をするのが、つらかったということです。社長という立場になると、社員が離れていくのが一番ツライ」。
なかなか思ったようにはいかない。ただ、継続は力なり、だ。「最初は、ハイボール50円?といっていたお客様も今は、全くいなくなりました。店舗数が増え、鶏ヤローがメジャーになったことが大きいです」。
たしかに、鶏ヤローは店舗数を拡大している。東明社長もコロナ禍の下で2店舗をオープン。現在は、蒲田、練馬、下北沢、横浜に4店舗出店している。コロナ禍を乗り越え、いずれも堅調な数字を叩き出している。
「それゆけ!鶏ヤロー」は、今日も賑やかに営業している。

・・・続き

株式会社ジュネストリー 代表取締役 東明 遼氏

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