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2022年11月24日木曜日

株式会社ダイナック 代表取締役社長 秋山武史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイナック 代表取締役社長 秋山武史氏登場。
本文より~

京都生まれの長距離ランナー。

風を受けて疾走する。時速で言えば何キロ出ているんだろうか?「父親も兵庫県下でわりと有名な陸上選手だったので、その才能を受け継いだのかもしれませんね」。
今回ご登場いただいたのは株式会社ダイナックの代表取締役秋山氏。
秋山氏が生まれたのは1970年。「京都で生まれ、大学を卒業するまで京都がずっと私のホームでした」。出身大学は同志社大学商学部。
「小さな頃からかなり自由にさせてもらっていましたが、躾という意味では、父は厳しかったですね。ただ、指図されるのがイヤな私の性格を知っていたんでしょう。基本、私の考えを尊重してくれていたようにも思います」。
小学校で8クラスあったというから、さすが京都のど真ん中。「中学になって、京都の南区から城陽市という奈良県よりの市に引っ越します」。
公立中学だが、陸上は強豪。そのなかでも秋山氏は群を抜いていたのではないか。「走るのが好きだったから入部するんですが、練習はきつかったですね。部員は50人ちかくいました」。
秋山氏は長距離3000メートルを選択する。
「中学2年くらいから成績も良くなって」と秋山氏。平然というが、全国で4位、ジュニアオリンピック2位というからすごい。
「練習では弱く、本番に強いタイプ」。これは自己評価。

同志社大学時代。海でも走る?

「洛南高校から同志社大学に進みます。いずれもスポーツ推薦で進学しました」。洛南時代には、全国高校駅伝1区で当時の区間賞を獲得している。
調べると記録が残っていた。39回大会、29分53秒、秋山武史、京都、洛南と記載されている。「とにかく負けず嫌いなんです。だから、先を進む選手を抜くまであきらめなかったんでしょうね笑」。
社会人の強豪チームから声がかかったが、陸上は大学までと決めていたという。大学時代、陸上は続けたが、その一方でサーフィンにもハマった。こちらは、今もつづけているというから、相当のめりこんだのだろう。
「海外にも行きましたしね。アルバイトは、サーフショップや飲食店でした。あの頃から、お酒を飲みながらワイワイガヤガヤするのが好きだったんでしょうね」。
就職先も、その延長線上で判断した。ワイガヤの店づくりが、就活コンセプト。

サントリー入社。角ハイブームを巻き起こす。

1993年、秋山氏はサントリーに入社する。当時はバブル経済が崩壊し、就職ランキングトップクラスの常連であるサントリーといっても採用枠を減らしていた。
狭き門に、相当数の学生がチャレンジしたはず。そのなかで勝ち抜いたのは、たしかに、本番に強い証。
「就職して初めて京都を離れます。希望通り東京南支店(渋谷)に配属され、大田区を担当しました。こちらで3年勤務しています。そのあと市場開発本部に異動し、5年半。こちらでは、全国チェーン店の開拓などをしています」。
秋山氏は、そののちグルメ開発部に異動。旨い一杯をつくりだす。
「ここでは業態開発やメニュー開発をメインに、経営支援をするのがミッションです。ブランディングやマーケティングも重要なテーマです」。
さて、その旨い一杯というのは、のんべぇでなくても「旨い!」と歓声をあげたあの一杯。。「角瓶」をソーダで割って飲む「角ハイボール」である。角ハイの戦略は、消費者だけではなく、業界のなかでもセンセーショナルだったのではないか。とにかく、筆者自身は「とりあえずビール」から「とりあえず角ハイ」となった。
まんまと戦略に乗せられた格好だが、旨いのだから、いくら乗せられてもいい。ちなみに、山崎のハイボールは角ハイより、まろやかで、これもまたいい。
筆者のなかで言えば、角ハイが、ウイスキーの消費曲線をV字回復する決め手になった。
どうも、この現象は筆者だけではなかったようだ。古いデータだが、角ハイがリリースされた2008年と、翌2009年、2期連続でサントリーのウイスキー出荷量は前年を上回っている。
ウイスキーの弱みを逆手にとり、「角ハイなら一杯目からでいい」を定着させ、ウイスキーの消費をうながしたのは、マーケッターとして大金星だ。
しかし、飲食店にとって厳しい時代が到来する。コロナ禍である。

コロナ禍でサラリーマンがいなくなる?

「新橋からサラリーマンがいなくなった」。コロナ禍の下、インタビューしたある経営者がため息を漏らした。リモートワークが喧伝され、サラリーマンが巣ごもりしてしまった時期のこと。
飲食店から1人2人と、歯がかけていくように、常連客が減った。
「ダイナックはサラリーマン御用達ですから、いちばんきつかったですね。宴会がまったくなくなったわけですから打撃はハンパない。お客さんがいないと、ただの広い箱ですからね」。
実際、コロナ禍でかなりの店をクローズしている。
このダイナックに、コロナ禍がスタートして、1年と少し経った2021年9月に社長として就任したのが、そう秋山氏である。
ウイスキー同様、V字回復できるのか。

・・・続き

株式会社ダイナック 代表取締役社長 秋山武史氏

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2014年8月14日木曜日

株式会社敬香堂飲料店 代表取締役社長 村山 敬氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社敬香堂飲料店 代表取締役社長 村山 敬氏登場。
本文より~

優秀な兄の背中を追いかけた少年時代の話。

「宮城県栗原市は、田園風景が広がる長閑な町だ」と村山。市の北西には栗駒山が聳え、栗駒山を含む栗駒山地は栗駒国定公園にも指定されているそう。周りは、むろん米作農家ばかり。
この町に村山が生まれたのは、1974年3月13日のこと。4歳離れた兄との2人兄弟。
「父は、運送会社を経営し、長距離の大型トラックを運転していました。私も良く一緒に東京に向かいました」。
「東京が近づくと、東京タワーや超高層ビルが見えてくるんです。なんか、すごいなぁって…」。父と向かった東京。それは、鮮明な記憶の一つとして、今も残っている。
「父と共に車の工場に行くことも多くって、車の修理工場と喫茶店が一緒になった店があればなぁ、と漠然と思っていました」。
ものづくりが好きで、大工にも憧れていた。
小学2年生になると、兄と一緒に空手道場に通った。才能があったのだろう。県の大会で3位になっている。サッカーを始めたのは、小学6年生になってから。
中学2年次には、マラソン大会で優勝。
成績も、スポーツも優秀な兄の後を追いかけた。兄ほどではなかったが、少しずつ目立つ少年になっていった。
「私は兄の背中を追いかけて大きくなった」と村山。その兄は、国立の東京学芸大学にストレートで進学。「勉強すれば、私も兄のようにストレートで合格できると思っていたのですが、現実は甘くなく、浪人する羽目になりました」といって村山は笑う。

「8時間仕事をして、8時間遊んで、8時間寝る」。元日産の営業マンの持論。

「早稲田か明治かと思っていました。でも、1年間の浪人生活もむなしく2浪が決定してしまいました(笑)」。いまなら笑って言えるが、当時は、「何をすればいいのかまったく分からなくなった」そうだ。
さすがに親に迷惑ばかりかけてはいられないと勉強の傍ら、バイトも開始する。小さな居酒屋。その店のマスターが粋な人だった。
「日産の営業マンだったそうです。脱サラして店を開いて。マスターの持論は『8時間仕事をして、8時間遊んで、8時間寝る』でした。ダットサンにサーフボードを積んで、せっせと波を追いかけて。私も当時まだ18歳でしょ。なんだか格好良くって。その時、飲食というか、飲食を通して、こういう生活もできるんだというのが、頭の中にインプットされたんだと思います」。
24時間、3分割。確かに合理的。均等な割振りでもある。だが、仕事に重きを置かざるを得ない、サラリーマンには無縁の話であるのかもしれない。
やはりマイペースで生きようと思うなら、独立するしかないのだろうか。もっとも、「独立すれば、好きなように生きられる」と思い込むのは早計であるのだが。
いずれにせよ、このマスターの生き様は村山の生き方に多少なりとも影響している。とはいえ、浪人生。まだ独立、開業は頭にない。・・・続き

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