2014年8月14日木曜日

株式会社敬香堂飲料店 代表取締役社長 村山 敬氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社敬香堂飲料店 代表取締役社長 村山 敬氏登場。
本文より~

優秀な兄の背中を追いかけた少年時代の話。

「宮城県栗原市は、田園風景が広がる長閑な町だ」と村山。市の北西には栗駒山が聳え、栗駒山を含む栗駒山地は栗駒国定公園にも指定されているそう。周りは、むろん米作農家ばかり。
この町に村山が生まれたのは、1974年3月13日のこと。4歳離れた兄との2人兄弟。
「父は、運送会社を経営し、長距離の大型トラックを運転していました。私も良く一緒に東京に向かいました」。
「東京が近づくと、東京タワーや超高層ビルが見えてくるんです。なんか、すごいなぁって…」。父と向かった東京。それは、鮮明な記憶の一つとして、今も残っている。
「父と共に車の工場に行くことも多くって、車の修理工場と喫茶店が一緒になった店があればなぁ、と漠然と思っていました」。
ものづくりが好きで、大工にも憧れていた。
小学2年生になると、兄と一緒に空手道場に通った。才能があったのだろう。県の大会で3位になっている。サッカーを始めたのは、小学6年生になってから。
中学2年次には、マラソン大会で優勝。
成績も、スポーツも優秀な兄の後を追いかけた。兄ほどではなかったが、少しずつ目立つ少年になっていった。
「私は兄の背中を追いかけて大きくなった」と村山。その兄は、国立の東京学芸大学にストレートで進学。「勉強すれば、私も兄のようにストレートで合格できると思っていたのですが、現実は甘くなく、浪人する羽目になりました」といって村山は笑う。

「8時間仕事をして、8時間遊んで、8時間寝る」。元日産の営業マンの持論。

「早稲田か明治かと思っていました。でも、1年間の浪人生活もむなしく2浪が決定してしまいました(笑)」。いまなら笑って言えるが、当時は、「何をすればいいのかまったく分からなくなった」そうだ。
さすがに親に迷惑ばかりかけてはいられないと勉強の傍ら、バイトも開始する。小さな居酒屋。その店のマスターが粋な人だった。
「日産の営業マンだったそうです。脱サラして店を開いて。マスターの持論は『8時間仕事をして、8時間遊んで、8時間寝る』でした。ダットサンにサーフボードを積んで、せっせと波を追いかけて。私も当時まだ18歳でしょ。なんだか格好良くって。その時、飲食というか、飲食を通して、こういう生活もできるんだというのが、頭の中にインプットされたんだと思います」。
24時間、3分割。確かに合理的。均等な割振りでもある。だが、仕事に重きを置かざるを得ない、サラリーマンには無縁の話であるのかもしれない。
やはりマイペースで生きようと思うなら、独立するしかないのだろうか。もっとも、「独立すれば、好きなように生きられる」と思い込むのは早計であるのだが。
いずれにせよ、このマスターの生き様は村山の生き方に多少なりとも影響している。とはいえ、浪人生。まだ独立、開業は頭にない。・・・続き

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