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2024年8月7日水曜日

株式会社エムピーキッチン 取締役社長 石川晃久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エムピーキッチン 取締役社長 石川晃久氏登場。

本文より~

将来の夢は宇宙飛行士?経営コンサルタント?

面白い話をきいた。今回、ご登場いただいたエムピーキッチンの石川さんの少年時代の話である。小学校時代から地元では群を抜く秀才。進学校を目指しとある進学塾に入る。その進学塾はトップ校を狙う生徒ばかり。異様な空気だったにちがいない。
「怪物だらけでした」と、石川さんは笑う。「全国模試の上位で名前をみたことがある方ばかり。僕の中ではみんなアイドルでした」。
「受験界のアイドル」、という石川さんの表現が面白い。
「私は、中学・高校と駒場東邦に進みます。中学生の時には、宇宙飛行士志望だったんですが、高校では経営コンサルタントをめざすようになります」。
宇宙飛行士から経営コンサルタントに心が移る。どうしてだろう?
「とてもシンプルで、化学と物理ができなかったんです(笑)」。
「それで宇宙飛行士は断念し、高校になって、『経営者に対し、経営指導するコンサルタント』ってかっこいいなと思って、コンサルをめざすようになります。当時でいえばアクセンチュアさんとかですね」。
当時、アクセンチュアの名を知っている高校生は、まず少なかろう。

コンサルティングと、飲食の社長と。

「私が進学したのは、慶應義塾大学の総合政策学部です」。
総合政策学部は、湘南藤沢キャンパスにある。
「試験が数学と小論文のみで、まさに私にぴったり。ただ、1~2年は、単位を取るためだけに通っていました。大学が面白いなと思い始めたのは3年になってから」。
複数のゼミを入ることができたらしく、経営や、デザインを、プロジェクトベースで勉強できたそうである。
「たとえば、スタートアップ企業がどう大学から生まれるかなどを考えるプロジェクトなどですね。企業の方々とタッグをくみ、実際に業務改善やマーケティング戦略の提案をするようなプロジェクトもありました」。
勉強の一方で、受験が終わった高校3年から大手ハンバーガーチェーンでバイトを開始する。
「とにかく、むちゃくちゃ楽しかったですね。大学に進学してからもつづけます。とにかく、1~2年時はバイト三昧でした」。
コンサルタントは、どうなったのか?
「大手ハンバーガーチェーンのほかに、経営コンサルティングの会社でもアルバイトをさせてもらいました。間近で仕事をみせていただいて、すごいなと。それは事実なんですが、彼らの仕事がすごければすごいほど疑問が膨らんでくるんです」。
「日本には有名なコンサルティング会社があって優秀な方がたくさん働いているのに、どうして日本経済はよくならないんだろう?というとてもシンプルな疑問です。何かがちがうのか。コンサル以外の仕事に目を向けるようになったのは、これがきっかけでした」。
コンサルと名乗る企業や人は少なくない。有能な人もたくさんいるんだろう。しかし、経営を理論的に語れたとしても、それだけで、人の心が動く保証はない。だから、むずかしいし面白い。その頃から人が育つ場を提供できる飲食業に貢献したいという思考が明確になる。
「大手ハンバーガーチェーンの社長になれる人間になろう。」と思ったそうだ。
ともかく、大学を卒業した石川さんの話である。石川さんは、ユニリーバ・ジャパンに入社することになる。ユニリーバはラックス、ダヴ、AXE、クリアなどの世界400以上のブランドを日本で展開する消費財メーカー。シャンプーを思い浮かべる人が多いんじゃないだろうか。

リアルな社会で、描く未来。

「ユニリーバの仕事は面白かったですね。最初は関西で、問屋さんやドラッグストアへの営業です」。営業成績は悪くない。会社からの評価も高かったはずだ。
「ものを売るということではかなわない先輩がゴロゴロいたんです。先輩が営業に行くと、『キミが言うなら』と握手だけでお客様が購入されるんです(笑)」。
理論派の石川さんからすると「なかなか真似できないスタイル」ということになる。それでも自分なりの方法で必死に駆け回り、営業成績を残してきた。
「関西から本社にもどり、マーケティングを担当します。上海に赴任し、海外の生活も体験しました」。
ユニリーバで8年。
「私自身でいうのもなんですが、会社における将来のキャリアがぼんやりわかってきました。元々目指した飲食社長への道とユニリーバでのキャリアアップ、ちょうど30歳という節目ですから意識したのかもしれません。将来を期待いただいていたユニリーバを辞め、コンサルティング会社に転職します」。
そして、コンサルティング会社で2年。そして、2018年、32歳の時に、エムピーキッチンに経営企画室室長という肩書きで入社している。

・・・続き

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2018年9月4日火曜日

株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社エムピーキッチン 代表取締役 村上竹彦氏登場
本文より~

三宅島一周。

東京都といっても、本州から175キロメートル離れている。伊豆大島からでも57キロメートル南下しなければならない。今回、ご登場いただくエムピーキッチンの社長、村上 竹彦氏は1961年の5月5日に、この海の向こうに浮かんだ孤島、三宅島に生まれている。
両親は、ともに三宅島生まれ。父親は役場に勤務する役人だった。夏の間だけ、民宿も営んでいた。
村上氏は、3人兄弟の次男。兄とも弟とも一つ違い。
「私がはじめて東京に行くのは、小学4年生の時」と村上氏。10歳くらいの時だから1971年で、日本の中心である東京が、高度経済成長期の象徴として猛烈なスピードで発展していた頃である。少年の目に東京はどのように映ったのだろうか。ちなみに、村上氏がこの東京で暮らすようになるのは高校生から。
「中学校は三宅中学です」。三宅中学のホームページを観ると最初に、自然豊かな風景が飛び込んでくる。正式には「三宅村立三宅中学校」。当時、クラスは2クラスだけだったそう。
「競歩大会っていうのがあって、島を一周するんですが、そこで4位になりました。生徒会もやっていました。中学を卒業して、私は東京の高校に進むのですが、同様に東京の高校に進学したのは、わずかで3人しかいませんでした」。
島を離れる。東京に対する憧れか、それとも島を逃げ出すことが目的だったのだろうか。

東京暮らしは、ディスコとともに過ぎていく。

島を離れ進んだのは、都立千歳高校(現在は、東京都立芦花高等学校)といって、世田谷区にある高校だった。「私は下北沢に住んでいました。正直いって、カルチャーショックです。ファッションセンスって、そういう言葉自体、島じゃリアルじゃなかったですから」。
そりゃそうだろう。同じ東京都といっても、風景はまるで異なる。「割と硬派でね。長ランとか、短ランなどで決めていました。だから、そもそもファッションとは無縁だったんですが、高校生になって、カルチャーショックを受けて。基準がわからなくなって、1年の夏に、見事にディスコにハマってしまいました/笑」。
「学校にもあまり行かなかった」と村上氏は笑う。
「ディスコにハマったりして、実は、2学期からは学校にも行ってなかったんです。先生に諭され、なんとか踏みとどまることができました。それに、2年になると兄が上京してきたものですから、下北沢を離れ、登戸で兄といっしょに暮らすことになります。兄といっしょですから、そうそうディスコばかりも行けません」。
大学は、日本大学の法学部政治経済学科に進んでいる。ディスコは、早々と卒業し、勉強に明け暮れた証だろう。
「最初は、中央大学を狙っていたんですが、こちらはダメで、それで一浪して、日本大学に進みます。就職活動は、証券会社一本に絞っていました」。

1000万円プレーヤーの証券マン、36歳で牛丼屋の店長をめざす。

希望通り、立花証券に入社する。入社3年目で1000万プレーヤーになった。バブル経済で日本中が浮かれまくった時代も、破綻後、日本中が暗く沈んだ証券不況時代も経験した。
この証券会社を退職したのは1997年。証券不況の真っただ中。
「今でも、相談せずに転職したって、妻に責められるんです」と笑いながら、当時の話をしてくれた。「証券不況でしょ。潰れる会社もあって。証券会社の社員のリストが転職マーケットに出回っていたんでしょうね。私の手元にも一通のダイレクトメールがくるんです。その内容が、熱いっていうか、くさいっていうか。それで印象に残って、面接に行ったら、あの人のパワーに圧倒されるんです」。
「あの人」と村上氏がいうのは、現ゼンショーホールディングスの会長兼社長の小川 賢太郎氏のことである。以来、20年の付き合いになるとは、互いに想像もできなかっただろう。
「当時、私は36歳です。子どもも3人いました。証券不況だったこともたしかですが、もう少し地味な仕事もしてみたいな、という思いがあったんです。そう思っていた時に、小川さんからのDMです。縁でしょうね。36歳の牛丼屋の店長もいいかって/笑」。
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