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2024年2月21日水曜日

株式会社Human Qreate 代表取締役社長CEO 米田拓史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Human Qreate 代表取締役社長CEO 米田拓史氏登場。

本文より~

少年、朝ごはんをつくる。

料理の代わりに、1万円札を渡された。子どもの頃から外食が多い。かといって、マクドナルドやサイゼリヤなどは、NG。
父も、母も経営者だったから経営の仕事で、いそがしい。テーブルの向こうには、いつも弟1人。「ごくたまに祖母が、マクドナルドなど、NGなファストフードにも連れてってくれて。そりゃ、旨い!ですよね」。そう言って笑うのは、今回ご登場いただいた株式会社Human Qreateの代表取締役社長CEO、米田拓史さん。
「高いお金を払っていいものを食べたって、それだけじゃぜんぜんおいしくない。笑いながらみんなと飯を食う、これがいちばんだっていうのは、こどもの頃のさみしい食卓でみつけた、私なりの『旨い』の本質です」。
以下も、米田さんの子どもの頃の話。
「小学校では、できがよすぎて、イジメにあいます(笑)」。
スポーツも、勉強も、それ以外でもなんでもできるスーパーマンだった。ふつうなら賞賛されていいのだが、逆に怒りをかった。
一つだけ、褒められることがあった。
朝食の話。
「小学生のとき、朝ごはんは私がつくっていたんです。ウインナーとか、卵焼きとか。父や母が褒めてくれる、それが嬉しくて。ただ、その両親は私が10歳のときに離婚しています」。
両親が離婚しても、食卓のスタイルはかわらない。あいもかわらずひっそりしている。
「あの頃ね、ともだちの家でいただいたカレーライスとかが、むちゃくちゃ旨かったんです。怒られるかもしれませんが、カレーそのものは美味しくはないんです。でもね、みんなと食べると、世界がかわるんです」。

100メートル、10秒58。

「中学、高校はサッカーです。高校は桃山学院といって、偏差値は70くらいです。ただ、私立ですから、スポーツ推薦で進学する子もいて。学力差は、あったかもしれませんね。大学は、日本大学に進みます。こちらで陸上部に入ります」。
入部するのに、2ヵ月、監督に受け入れてもらえなかったという。
「当時の日大の陸上部は、400人の規模です。だれもが高校時代から経験のある優れた選手たちです。そんななかにど素人が堂々と『入れてくれ』っていうわけですから監督からすれば、『舐めているのかこいつ!』ってなるわけですよ」。
「でも、こっちもひくわけにはいかない(笑)。サッカーやって、親にもお金を使わしていましたから、その道でプロになれたらいちばんなんですが、さすがに厳しい。サッカーと100メートルを天秤にかければ、100メートルのほうが可能性があると思って、サッカーを断念して、日大にきたわけですから」。
一度だけチャンスがほしい。そうすれば、俺が言っていることがわかると言い続けた。
「ついに監督が折れて、20種目くらいの基礎体力テストに混ぜて下さったんです」。
<結果はどうでした?>
「400人中1位です。もう、笑うしかなかったんでしょうね。おまえは室伏広治か、なんて冗談でね。とにかく、伝説の奴がきたみたいなって感じになって」。
1年生でオリンピックの強化選手に選ばれている。
「ただ、なまじっかはやく走れるだけに、からだがついてこなかったんです。ほかの選手は、言ったら走る訓練をつづけてきた人たちです。私は、サッカーをやっていたと言ってもね」。
<出力が大きすぎて、からだはついてこないというイメージですか?>
「その通りですね。結果、怪我に悩まされて」。
最高記録は10秒58。

前代未聞の、エントリーシート。

「陸上競技をあきらめた私は、ブライダル業界に就職します。じつは1社しか受けていません。1/1ですね」。
就職談にも、米田という人が表れているので、そちらの話にも耳を傾けよう。
「ウェディングは苦手克服のために選択したんです」。
<どういうことですか?>
「割と簡単な話なんですが、陸上選手って、私もそうなんですが社交性がないんです。個人スポーツですからね。団体競技とは、ちがうんです」。
0コンマを狙うスポーツには、チームワーク精神すら邪魔になるんだろうか?
「自覚するかどうかは別にして、私はそういうのを知っていましたから、このままじゃあかんと。だから、ウエディングなんです。ウエディングってたのしくない時も笑わないといけないし、申し訳ないと思っていなくても、謝らないといけない。チームワークもいるし。当時の私は、敬語だってできない。礼儀正しく立つことすらできないヤバイで奴だったんです。だから、それを改善するにはブライダルだって」。
<たしかに、ヤバそうですね(笑)>
「ただ、わかっているのに、面接時からやらかしたっていうか(笑)」。
合同説明会にでて、感動したそうだ。
「にもかかわらず、普通なら落としてくださいっていうコミュニケーションしかできないんです」。
では、以下その時の実況中継。
「ぼくは、御社しか受けないんでお願いします」
「そうなの? 大丈夫じゃないかな。キミなら受かると思うよ」
「ぼくは、そういう、受かると思うよ、ってことで言ってないんで。時間がないから、もう受からせてくださいよ」。
まだ、一次面接。
<で、どうなったんですか?>
「エントリシートがいるというので、希薄のエントリーシートをだしました。名前はもちろん書いていますが。前代未聞って、電話がかかってきました(笑)。結果、2次、3次と進みます。いくら強気なことを言っても、社会性がないことは自覚していますから。そんな私に時間をくれる会社に、だんだん、愛情が湧いてくるんです」。
<愛すべき会社って意味ですね?>
「そうです。結果、2万人のエントリーというごく狭い門を突破して、就職できました。が、地獄はそこからです」。

一杯、1000円の珈琲。

無事採用されたが、配属されたのは宴会サービス。
「華やかなウエディングサービスのなかでも、目立ちたがり屋の自分にとって特に目立たない部署。配属を言い渡された時から心が折れ1年はアルバイト以下の感覚しかなかったです」。
「マジで仕事に行くのもいやだったですね」と米田さん。口調から、相当、イヤだったことがつたわってくる。
<でも、そんな米田さんがトップの成績を残すようになるんですよね?>
「2年目にカフェ&レストランに移るんです。最初は大阪だったんですが、今度は東京です。でも、志があったわけではなく、今までと同じモチベーションです。ただ、くそいそがしいところだったんで、残業代だけで給与が増えると思い、ウキウキして東京に向かいます。でも、やはり地獄をみるんです」。
「4億円のカフェ&レストランです。アルバイトって言ったってむちゃくちゃ優秀なんです。ぜんぜんかないません(笑)。社員なのに、なんでそんなこともできないの?って」。
「だから、むちゃくちゃ凹むんですが、その一方で、お客様から『ありがとう』って。仕事をして初めて褒めていただけるんです。すると、もっと褒めてもらいたくなる。珈琲、一杯1000円です。原価が50円とするでしょ。950円が付加価値です。じゃぁ、その付加価値ってなんだって、初めてそこにも目を向けるんです」。
「つまり、その950円っていうのは、私たちがつくる価値、そのものなんですね」。
お客様の服、オーダーされた食事、もっていらしたバッグの色まで、すべて顧客リストに記載した。
「今日のバッグは緑なんですねとか、元気が欲しくなったらまた来てくださいねとか。私たちのサービス一つで、実は1000円の珈琲が、2000円にもなるってことにも気づくんです」。
<地獄が、天国にかわる?>
「まぁ、いそがしいから天国とはいきませんが、そのぶん、残業代がつき、給料も入社2年目で50万円ちかくになりました」。
来店数は日に700~800人。それを15名のスタッフで回す。米田さんは、スタッフをコントロールするようになっていく。

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株式会社Human Qreate 代表取締役社長CEO 米田拓史氏

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2023年3月14日火曜日

株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏登場。


本文より~

長崎から藤沢へ。

日大の生物資源科学部のキャンパスは藤沢にあった。「大学の2年時に進級するまでは、藤沢がホームグラウンドでした。その時にご縁があり、二代目社長の下、古久家でアルバイトをはじめました」。
今回、ご登場いただいた株式会社古久家の代表取締役、出石雅夫氏は1957年、長崎県の大島に生まれる。その昔は炭鉱の島だったが、現在は農漁業と造船が主産業。佐世保港からフェリーで1時間程度だという。
お父様は床屋をされていた。仕事はできたが、酒飲みでギャンブル好きだったと笑う。
お母様も長崎県、生まれ。やさしく、怒られた記憶がまったくないらしい。
「高校までを地元で過ごして、スポーツは、中学から高校の途中まで、バレーボール部に所属していました。高校のクラスは、理系と文系の進学組と就職組に分かれていたので、私は理系の進学組を選びました。長崎ですから、関西の大学に進む生徒も少なくない中、私は最初から東京を目指しました」。
それで、日大の藤沢のキャンパスだったわけですね?
「そうです。そこで古久家と出会いました。アルバイトは他にも、色々と経験しました。ゴルフ場の草むしりに、表札や英語教材のセールスなど、その中でも、一番長く続いたアルバイトが、マクドナルドでした」。
「私は新卒で、大手住宅メーカーに就職したのですが、実はこれはリベンジでもありました」。
リベンジ?
「セールスのアルバイトをしたと言いましたが、これが全然売れなかった、それが本当に悔しくて。なので『だったらもっと価格の高い住宅』を、これを販売して、その時のリベンジをしてやろうと思ったのです。結果的に、その会社では在籍2年と短い期間でしたが、全国で2番目の営業成績を残すことができました。リベンジはちゃんと果たせたと思っています」。
現金で支給されるボーナスは、封筒ごと直立したそうだ。
「ただ、ふと周りの先輩方の姿を見て将来を想像した時に、どうしようかな、となりまして。それで結局、古久家に転職しました。私が25歳の時です。もちろん、給料は激減しましたよ(笑)」。

古久家への転職。

話を戻しますが、進級されてからは、古久家のアルバイトは辞め、東京のキャンパスに移られるんですね?
「はい。ただ、東京へ引っ越した後も、二代目からはちょくちょく食事に誘って頂きました。自分なりに東京の飲食店事情を調べてご報告したりして、まぁ、リサーチャーみたいなものですね(笑)」。
縁とは不思議なものだ、思っていなくても結ばれた一つの縁がきっかけとなって未来が決まることがある。もっとも、その時点では「旨い飯が目的」だったらしく、古久家に就職するとは思ってもいなかったようだ。だが、飲食とのつながりは切れてはいなかった。
「マクドナルドのアルバイトがいちばん長いとお伝えしましたが、時給が良かったですし、何よりも勉強になりました。あの頃のマクドナルドは、ビジネスでも最先端だったのではないでしょうか」。
たしかに、マクドナルドは日本の飲食経営に、アメリカ式の合理的で科学的なアプローチを導入する。もっとも創業者の藤田田氏は、人情家で、ドライな経営とは無縁の人だったそうだが。
ともあれ、出石青年にとって、マクドナルドでの経験は衝撃的だったにちがいない。今も、マクドナルドのオペレーションを参考にしているというから、間違いない。 飲食だけでいえば、古久家をいったん離れ、マクドナルドで修業したことになる。
給料は減ったが、未来は広がった。ここからは、古久家への転職の話。
「私が転職したのは、湘南台店がオープンするタイミングでした。オープンするまで、研修を重ねて、最初から店長として配属させていただきました」。
25歳の時だった。
「当時の古久家は、まだ3店舗ほどでした。古久家への愛着もありましたし、社長にも懇意にしていただいていましたが、転職した理由は、それだけではありませんでした」。
会社にほれ込んだと出石氏はいう。むろん、客観的に評価しての結果。
「マクドナルドでは、アルバイトながらも、社員に次ぐポストのスイングマネージャーを務めていましたから、マクドナルド式の運営や経営の方法は理解していました。マクドナルドと比較すると、当時の古久家のそれは、まだまだ昔ながらのオペレーションでした。マクドナルドのノウハウを古久家に移植すれば、もっと業績が拡大すると、そう私は確信をしていました。そして、行動に移したわけです」。
未来という意味では、マクドナルドより、むしろ大きいと思ったのではないか。とはいえ、いきなりイノベーションを起こすことはできない。
「古久家は創業1947年です。お客様からご評価をいただきながら、またその歴史がある分、私が転職した当時は、社内の様々なシーンで経年劣化が起きていました。職人方の認識もそうです」。
なかなか職人の癖は、抜けなかった。社内の人間関係もそう、当時の古久家は、職人たちの天下。
「私は、彼らにこう伝えました。『職人さんたちが旨いラーメンをつくってくださるおかげで、今がある。それは、絶対です。しかし、きれいに洗われた器があるから、旨いラーメンを出せる。その器を洗ってくださるスタッフさんやアルバイトさんも、同じく大切な存在です』と」。
飲食経営の根幹は、人。これもまたマクドナルドの教え。出石氏は「人」の意識改革に取り組む。ていねいに、真摯に言葉を重ねる出石氏に対し、心をひらく職人たちが現れる。いつしか、互いへのリスペクトの心も広がった。

金勘定で、老け込む。

「二代目は、40代の時に父である創業社長から、会社を引き継ぎました。その後、三代目が引き継き、そして、私自身は60を過ぎてから、四代目を引き継ぐことになりました」。
すでにナンバー2になっていた、という。
「コロナ禍に突入する前年の2019年に、当時は会長職にあった二代目の号令の下、会社は3つに分社され、私たちはボランタリーグループとして、歩み始めました。そしてその直ぐ後に、コロナ禍がスタートしました」。
社長となった途端に、いままでになかった敵と闘うことになる。
「コロナとの闘いは大変です。しかし、そうですね、過去にあった大変な時期を挙げるとしましたら、35歳の頃から財務を担当しましたが、むしろその時の方が。当時の私は一気に老け込みまして、あれも、本当に大変な闘いでした」。
どういう意味ですか?
「言葉の通りです。それまで私はまわりからは、どちらかと言うと、比較的若くみられる方でしたが、財務を担当するようになってからは、心身の疲労でしょうかね、年齢以上に老け込みました(笑)」。
資金ショートの危機もあったそうだ。
「財務ですからね、なんとかしなくてはいけない。立場が変わる前は、たとえ一時しのぎであっても、ショートするのを回避できれば、それでいいと思っていた節はありました。しかし立場が変わるとそうはいかない」。
ナンバー2は難しい立ち位置でもある。ショートしなければ、それでいいという出石氏の気持ちもわからなくもない。むしろ、それが通常といったほうがいいんじゃないだろうか。
ただ、老け込んだ出石氏をみて、出石氏を慕っていたスタッフたちはどう思っただろうか? 転職時にみた古久家の未来像は、どこにいってしまったんだろうか? それを追いかける出石氏の情熱を含めて。

試練のあとの、イノベーション。

「そうですね。ただ、私自身は金銭的にそれほど欲があるタイプではなく、それなりの給料も貰っていましたから、危機感が薄かったのでしょうね。でもある時、部下の給料を知って、これはヤバイと、初めてなんとかしなければと思うようになりました」。
ナンバー2に甘んじているわけにはいかなかったということだろう。「給料をアップする為には、利益を出さなくてはいけません。一つは、節約ですね。ただ、それでは縮こまるだけでしたから、税理士の先生にもアドバイスを頂きながら、全店のリニューアルを行いました。ショップの経年劣化に切り込みました」。
歴史があるぶん、ショップもまた古くなっていた。
「当時は、全店の店長を集めた会議もおざなりになっていましたから、もちろん、それも仕切り直しました」。
店長会議のスタイルも、出石バージョンにする。「良いことはやり、悪いことはやらない」を徹底したと出石氏はいう。
財務のルールも徹底する。1/3ルールがそれ。1/3は会社にプールし、1/3はお客様に、1/3は従業員に還元する、というルールだ。
ちなみに、「左理論」も教えていただいた。古い駅は左側が発展している、コンビニなども左回りで陳列されているそうだ。さすが、理論派。
飲食を含め、日本の流通を変革した「ペガサスクラブ」の本も、愛読していたそうだ。
エビデンスのある経営。これが、マクドナルドの経営スタイルの正体でもあるのだろう。ただ、コロナ禍のピンチは、またまた出石氏を悩ませる。

・・・続き

株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏

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2023年2月9日木曜日

株式会社LG&EW 代表取締役社長 中澤祐介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社LG&EW 代表取締役社長 中澤祐介氏登場。 

本文より~

バスケットボールと中澤氏と。

「親が呼び出されるほど、落ち着きがない子どもでした」と笑うのは、今回ご登場いただいた株式会社LG&EWの代表取締役社長、中澤祐介氏。
ただ、小学4年の時、川崎に引っ越してから「ふつうになった」そう。
「環境がかわったから、ちゃんとしないといけないと思ったんでしょうね」。だれかに言われたわけではないらしい。中学になってハンドボール部に入部。「めちゃくちゃ強い部だった」とのこと。
中澤氏は、万年Bチーム。「からだも小さかったし、うまいのがゴロゴロいましたから笑」。ただ、万年Bチームだったが、ハンドボールは大好きだった。
日大三高に進んだ中澤氏は、バスケットボール部に入部する。こちらも強豪。練習もハンパない。
「みんな辞めていくんです。正直、楽しいとは思ってなかったですね」。
その頃、ご両親が離婚されている。
「ナーバスになっていたわけではないですが、それもあって、退部を監督に相談したら、全否定されて。その日、なぜか練習が楽しくて。やっぱりオレってバスケが好きなんだなって思うんです」。
ちなみに、中澤氏は今もバスケットボールをしている。ボールを自在にハンドリングし、キュッキュッとシューズの音を鳴らすし、リングに向かってシュートする。
いえば、たったそれだけのことだが、それが人を魅了する。
「高校時代より、背丈は20センチくらい高くなりました。ただ、大学ではつづけていません」。
大学は日大ですか?
「内部進学で商学部に進みます。ただ、進みたい学部だったわけじゃなかったし、バスケットもしなかったから、だんだん学校に行かなくなってしまいます」。
学校に行かず何をしていたんですか?
「じつは、アルバイトにハマりまくるんです」。

飲食人生の始まり、始まり。

「時給は800円ですが、なんだかんだで、月30万円になっていました」。
時給800円で30万円?
「当時、私がハマったのは、清掃のアルバイトです。ショッピングモールや大学などの床を綺麗にする仕事です」。
給料が高くなったのは、深夜が多かったから?
「そうです。だれも知らないうちにピカピカにする。あれはあれで、全国のコンテストもあるんですよ」。
清掃員というより、プレイヤー。バスケット選手のように館内を自在に走り回る。ピカピカに光った轍が床に描かれる。たしかに、面白そうだ。
4年間つづけ、就職先も清掃関連の設備会社に決まっていた。「そう、決まっていたんですが、飲食のバイトも楽しくて、バイトばっかりしていたもんですから、卒業できなくて笑」。
飲食ですか?
「そう、私の飲食人生の始まりです」。
「お台場にある、今のクリエイト・レストランツの前身である徳寿という会社のお店です。店長が現、グルメブランズカンパニーの社長、石井克二さんでした」。
かけもちで飲食のバイトを始めたのは、20歳の時。清掃の時同様、ドハマリした。もちろん、その当時、会社がこれだけ巨大になるとは思っていなかった。
「1年間、留年しちゃったので、内定も取り消しになりましたし、クリエイトレストランツの創業店で仕事をつづけます」。
それでクリエイトレストランツに就職したんですか?
「いえ。飲食で、とは思ったんですが、就職したのはグローバルダイニングです。むちゃくちゃ恰好いいし、サービスも最高だったんです」。

挫折と再開。

3年間のバイト経験はだてではない。だから、ぜったいいけると思っていた。「私は、たまプラーザのモンスーンカフェで勤務を開始します。むちゃくちゃ忙しかったです。それは、それでよかったんですが、正直いうと、私のサービスレベルでは、まったく通用しなかったです」。
「当時の店長から、『逃げ癖がつくぞ』とも指導いただいたんですが、逃げるように退職します」。早速、やってきた飲食人生初の挫折。
それでどうしたんですか?
「銀座の酒屋さんで仕事を始めます。体もガリガリになってしまっていたので、体も造れるだろうと思って笑」。
飲食は向いていない、飲食業界から離れようと思ったという。ただ、高校時代、バスケットボール部のコーチからもらった色紙に書かれた言葉がふいに蘇ったそうだ。
「耐えがたきに堪えたるは、ああ、愉快なり」
それで、飲食人生の再開ですか?
「そうです。やっぱり飲食だと思って、際コーポレーションに1年ちょっとお世話になります」。
副店長になったが調理師とぶつかって退職。「調理のことはわからないだろって言ってくるんですね。もちろん、わかりません。だから、『わかった』といって、退職して、向かいにあったお店に入って1年間、キッチンの仕事をします。きっかけは、ともかく、いい勉強になりました。段取りやしくみが理解できたことは、私にとって大きな財産の一つです。そういう意味では、喧嘩をふっかけてきた、調理師には感謝しなければいけないですね笑」。

石井さんが呼んでいる。

このあと26歳でクリエイト・レストランツに入社されるんですよね?
「キッチンで働いていた店舗の経営元がかわることになって、それでいったんそちらを辞め、フロムエーというバイト雑誌をペラペラめくっていると、クリエイト・レストランツが掲載されていて。それで、興味本位で面接に行くと、すぐに電話があって、『君、石井って知っているよね? 石井が呼んでいるよ』って。そう、バイト時代の店長の石井さんのことです。それで、即採用いただき、『ポルトフィーノ』で勤務を開始します」。
いよいよ飲食の戦士、中澤が姿を現し、始める。
26歳で入社し、27歳、最年少でスーパーバイザーになり、35歳で、株式会社LG&EWの前身でもある株式会社イートウォークに役員として出向している。
代表はグローバルダイニングで総料理長などを務めた、カリスマシェフの渡邉明氏。「株式会社イートウォークをクリエイト・レストランツがM&Aをした時ですね。私はナンバー2として送りこまれるわけですが、渡邉明さんと出会ったことも、私にとって大きな財産の一つです。あれだけピュアに料理に立ち向かっている人は知りません」。
数字は、中澤氏がチェックし、コントロールしていた。
「私が渡邉明さんをリスペクトしていたのはもちろんですが、渡邉明さんも、私をリスペクトしてくださっていました。だから、うまくやっていけたんだと思います」。
現在、渡邉明氏は相談役だとのこと。
「2020年9月に、グループ再編によりイートウォークとルモンデグルメが合併し、LG&EWが生まれます。現クリエイト・レストランツの社長である飯沼辰朗さんが、いったん社長に就任され、私は今年の3月に社長に就任しました」。
「社長業は思っていたよりハードだ」と中澤氏は笑うが、それがナンバー2とナンバー1の違いは大きいということだろう。ただし、ナンバー1になる準備は整えていた。

・・・続き

株式会社LG&EW 代表取締役社長 中澤祐介氏

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