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2019年9月5日木曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太登場
本文より~

ラグビーと江田氏と。

小学3年生から始めたラグビーは、30歳までつづけた。社会人になってからは会社のチームに所属する。大学の時には肩の脱臼がくせになり、2年時には手術をしている。
「いまのマネジメントにもラグビーは役立っています。スポーツはこれ一本ですから、私自身をつくってくれたのはラグビーと言っていいと思います。/笑」。
ポジションはスタンドオフ。ラグビーでは司令塔と言われているポジションだ。
「高校生の頃までは、小学校の先生になるのが夢でした。結局先生にはなりませんでしたが、ラグビーで母校の高校監督や、大学のコーチをしたことで、夢が叶った気持ちがしています」。
ラグビーと学生生活。
「大学2年の時、脱臼がくせになって手術するんです。手術に踏み切ったのは、残りの大学生活、最後まで思い切りラグビーがしたかったから。でも、手術したおかげで、社会人になってもつづけることができました。ええ、やってよかったですね」。
ラグビーの精神も、江田氏のなかに息づいていることだろう。
「One for all, all for one」。
経営にも、人生にも通じる言葉だ。

「スーパードライの横に淡麗を」作戦。

就職先の第一志望は、キリンビールだった。「ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから」に興味をもったからだ。
「入社して2年は、練馬区の営業担当。そのあと5年間、スーパーやディスカウントストアを担当します」。
当時、それまで首位を譲ったことがないガリバーのキリンビールを、スーパードライのアサヒがシェアで追い抜くという、衝撃的な出来事があった。
スーパーやディスカウントストアでも、キリンラガーに代わり、アサヒスーパードライが売れに売れていた。当然、ディスプレイのなかで、いちばん目立っているのもアサヒスーパードライ。
「そうなんですね。キリンの牙城が、アサヒさんによって崩されます。キリンも新商品を出したり、勝負をかけるんですが、うまくいきません。発泡酒の淡麗ができたのは、ちょうどそういう時でした。私は、この淡麗で勝負をかけます。とにかく、淡麗をスーパードライにぶつけたんです」。
どういうことだろう?
「スーパーにもディスカウントストアにも予め決められた棚割りがあるんです。ただ、お店ごとにも多少の裁量があるには、ある。私は品出しなど、とにかくスーパーの人たちといっしょになって汗を流して、心を通わせ、スーパードライの横に淡麗を置かせてもらったんです。スーパードライの横に淡麗を、作戦です」。
これが、一つのターニングポイントと江田氏も言う通り、仕事の喜びを見出だしたのは、この時だ。
「それぞれのスーパーやディスカウントストアで、淡麗が、日々、スーパードライのシェアを食っていくんです。この戦略は、やがて全国に広がります。ついでに、東京に、スーパードライを逆転した奴がいる、とも」。

長崎は第二の故郷。


「キリンビールっていうのは、老舗ですが、自由な風土なんです。だから、私もいろんなことを思い切ってできたし、東京の若造が生み出したスーパードライの対抗作戦も『いい戦略だ』といってシンプルに広がっていったんだと思います。このあと5年間は、飲食店向けの業務用で仕事をします。スーパーやディスカウントストアならキリンビールがゼロになることはないでしょ。でも、飲食店なら起こるんです。ゼロか、100か。痺れる仕事です」。
もともと営業職を希望していた江田氏だが、このあと7年半、マーケティング部に異動。本社勤務となる。
「そのあとが長崎支社です。営業現場にも戻りたいと思っていたので、大変ありがたい異動でした。長崎はキリンビールにとって、ゆかりがある土地ですしね」。
営業部長として赴任し、1年半後に支社長に昇格する。ここでも、アサヒと熾烈なバトルが繰り広げる。「3年半の間に、少しだけシェアを奪回できましたが、力が足りず、逆転にまでは至りませんでした。その悔しさは残っています」。
もっとも長崎はいまなお思い出、深い。
江田氏が、支社長になってタイミング良く、「47都道府県のキリン一番搾り」がリリースされる。「これは、各都道府県の食文化や風土、歴史を活かしたビールなんです。原料も県によって違います。そういうビールをつくって、地域に貢献しようというプロジェクトです。地域の方々にも開発プロジェクトに参加していただきましたので、交流も生まれます。『ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから』。まさに、これですよね」。
このビールは、江田氏が支社長の2年間だけの限定商品だったらしい。このビールの開発、そして何より長崎の人々の温かさによって、江田氏は長崎に愛着をもつことができたのだろう。これも、ビールの多様性の一つ。江田氏は、「長崎が第二の故郷だ」といって、笑う。
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2015年9月29日火曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏登場。
本文より~

群馬県群馬郡箕郷町。いたずらっ子、村田少年。

群馬県群馬郡箕郷町。この地名はもうない。平成の合併により2006年に高崎市に編入されたからだ。この田舎町に代々続く商店があった。それが今回、ご登場いただくキリンシティ株式会社、代表取締役社長、村田毅氏の生家である。
村田氏が生まれたのは昭和36年。3月21日の早生まれだが、同級生のなかでも背が高く、ガタイがいい少年で、小学校の頃は柔道の道場に通っていた。
「柔道をはじめたのは、父の影響です。学徒出陣でビルマに出征していたということもあって、とにかく厳格且つ真面目で、酒も飲まず、ギャンブルも一切しない人でした。男ばかりの3人兄弟で、私は次男。3人共厳しく育てられましたが、特に私は親父に殴られて育ちました(笑)」。
兄も小学生から柔道をはじめ、中学でも柔道を選択したが、次男の村田氏は軟式テニスに転向。高校でラグビーを始め、その後そちらに熱中するようになる。
「元来、お調子者で、いたずらっ子。小学生の頃は女の子のスカートめくりが私の得意技だったような子供でしたから、女子からはあまり好かれていませんでした(笑)。当時は男女共学だったのに惜しいことをしました。というのは、高校は男子校だったため、結局、学生時代に浮いた話はあまりありません(笑)」。

ラグビーに熱中した高校、大学時代の話。

村田氏が進学した男子校は「高崎高校」と言って、群馬県では有数の進学校である。東大に進学している生徒も少なくない。公立の進学校だったが、ラグビーの強豪校でもあった。
「当時の群馬県では、いちばん強い学校でした。ただ、今と違い『花園』に行くためには、あと1勝しなければなりませんでした。隣の埼玉県の優勝校と戦って、2県で1校の代表校が決まるのですが、その1勝が遠かった。ぜんぜん歯が立たない。だから、いくら群馬県で勝っても、花園には行けなかったんです」。
村田氏はフォワード。とにかく、ガタイがデカかったからだそうだ。
大学は、1年浪人して「慶應義塾大学」に進んだ。
「大学でも引き続き、ラグビーです。部員は100人くらい。同級生は、入部当初30人以上いたのですが、うち10人くらいはすぐに辞めてしまいました。鉄拳? う~ん、慶応はそういうのはなかったです。ただ、練習はとんでもなく厳しかった。全体練習もさることながら、その前後にジュニア練習というものがあり、また更に就寝前のジュニア体操というのがあって、兎に角ハンパなかった」。
「うちは1年、2年がジュニアで、3年、4年がシニアという制度で、このジュニア練習とかジュニア体操はその名のとおりジュニアが対象です。特にジュニア体操は『体操』とは名ばかりで、毎日毎日門限(23:00)後に、腕立、腹筋、スクワット等を延々と…そうですね、1時間半はやらされるんです」。さすがにガタイのいい村田氏でも、へたばったそうだ。
そんなこともあり、村田氏は、1年時に単位が足らず留年している。
「親父に怒られました。なかなか許してくれなかった。でも、2年目、と言っても留年したのでまだ1年生ですが、2年目から試合にも出るようになって、親父も秩父宮ラグビー場や国立競技場に観戦に来てくれました。新聞の記事も小まめにスクラップしてくれていたようで。そういう意味では若干親孝行できたし、留年したことも少しは許してくれていたんじゃないでしょうか」。

キリンビール一筋。39歳で支社長に抜擢。

慶應のラグビー部。就職に困る要素はまったくない。元々メーカー志望であった村田氏は、「キリンビール」に進んでいる。1浪、1留しているから就職したのは1985年。当時、「キリンビール」は、ガリバーというより、モンスターだった。
「ナンバー1ですよね。絶対的な。私は、物流からスタートし、半年後に営業に異動。それから8年くらいデパートやスーパー、コンビニなどの量販店を担当。その後2年間、内勤で営業企画をやり、更にエリアの営業も経験し、39歳で鹿児島の支社長になります。ただし、もうこの時のキリンは絶対じゃない。アサヒスーパードライ発売から、アサヒビール社がシェアをのばし、キリンの牙城を次々、奪っていったんです」。
アサヒスーパードライが登場したのは、実は、村田氏が「キリンビール」に入社した2年後の1987年のことである。スーパードライが登場すると、それまで「キリンビール」の牙城であったエリアも含め、日本のあらゆるエリアが、オセロの色がかわるように次々とアサヒ色に塗り替えられていった。むろん、キリンビールも黙ってはいない。シェアを奪回するため奔走する。村田氏は、先頭に立って奔走した。
それが、村田氏のキリンビール人生でなかったか。さて、2015年3月、村田氏自身、思いもしなかった辞令が下りる。それが、キリンシティ、代表取締役社長就任」という辞令だった。

・・・・続き
キリンシティ株式会社 代表取締役社長 村田 毅氏
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