株式会社ソムリエ 代表取締役・守川 敏氏の“人徳と強運”、そしてワインとの出会いを描く最新作、配信開始!
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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“飲食の戦士たち”にANDDINING株式会社 代表取締役 桜井仁天氏を取り上げました。
キャベツとたまねぎを切る。熱したフライパンに放り込むと、音が弾む。
晩飯は、手が空いた者がつくるのが暗黙のルールだった。母と、おばあちゃんと姉ふたりとの暮らし。桜井さんが、手が空いたときにつくるのは、決まって簡単な野菜炒めだった。
「やっぱり、母の料理がいちばん旨かったですね」と笑う。
朝は食パン。ただ焼いてバターを塗るだけ。ジャムがあるときは、ジャムが加わる。姉たちの朝飯を真似て、小学一年生からパンとコーヒー。年間365日、かわらずそのメニューだった。
今回、ご登場いただいたのはANDDININGの代表、桜井 仁天さん。現在、ANDDININGは幅広い事業を行っている。飲食店経営はもちろん、鮮魚の卸と小売、加工食品の販売、飲食起業家の開業支援まで、まさに飲食のオールラウンドプレイヤーである。
ANDグループでは、高級仕出し弁当の販売会社や障がい者福祉事業会社なども運営し、地域・社会とともに歩む姿勢を鮮明に打ち出している。
「父と母は、19歳で結婚して20歳で長女を産んでいます。私の小さな頃は、両親は鉄板焼店を経営していました」。
姉が3人。
「長女とは10歳離れていて、次女が年子。少し離れて、三女と私。両親は、私が小学1年生のときに離婚します」。
飲食店は、知らないうちに閉店していた。
「長女は父と暮らし、私と姉ふたりは母と一緒に夜逃げのようにして、母の実家に移りました。6年間はおばあちゃんも一緒に暮らしていたと思います」。
まったく裕福ではなかった。
母は、仕事。年が離れた次女が母親代わりだった。冒頭に記載した通り、桜井さんも料理をした。小学1年生がフライパンをふり、野菜炒めをつくっている。今思えば、料理人、桜井の原点でもある。
「当時『料理の鉄人』がテレビでやっていて。好きで、よく観ていたんです。なんだかんだいって、小学1年生から料理と付き合っています。今は、仕事ということもあるんですが、たぶん、鉄人たちもそうなんでしょうが、私も食や料理が好きなんだと思います」。
もちろん、料理だけじゃない。地元のクラブチームでサッカーに熱中した。高学年からは、スケートボード。
中学生になってからは、サッカーはやめて、スケボーに没頭。
ストリートで、スケボーに乗る。車輪が路面をかむ音が響き渡る。アスファルトの細かな凹凸がダイレクトな振動となって伝わってくる。
その時間は、なにもかもから、自由だった。
そこには、ご両親のお店でかき氷を食べていた少年の姿はもうなかった。
中学卒業後、桜井さんは高校に進学する。だが、すぐに中退。定時制高校に編入する。
「高校に上がったときから『仕出し弁当店』や『居酒屋』『バー』等で朝も夜もバイトをしていたんです」。
「だから、学校どころじゃなかった」。
定時制に移ったことで仕事と学業が両立した。もっとも、授業にはでていたが、好きな歴史以外は決まって爆睡していた。
「仕出し弁当店で仕事をはじめると、学校より、そっちが楽しくて。高校を中退、そして、定時制に編入。和洋中の職人さん達がいて、調理のアルバイトは僕だけ。毎日色々な事を教えてもらいとにかく楽しかった。朝からバイトをして、学校で爆睡して、そのあとはバーで」。
「朝5時までのときもあった」と桜井さん。
バイト代だけが目的ではなく、「働くこと」が好きだったし、性に合っていた。
ピュアでまだ幼い桜井さんを職人たちは可愛がった。定時制の4年間で、桜井さんは料理の基礎を教えてもらっていた。Barでは大人に混じってカクテルを覚え、大人の世界を少しみた。
当時を思い浮かべて「あの頃が最初ですね。食の世界へ進もうと思ったのは」といった。
「ただね」と笑う。
「ただ、すぐには食の世界へ進まず、最初に日本一周の旅にでようと思ったんです」。
日本一周、長旅にでるため就職することなく、バイトをつづけた。バイト代が高いコンビニエンスストアの深夜バイト。
マット交換の営業も1年間つづけた。
準備万端。
「笑い話にもならないんですが」と言って桜井さんは、日本一周の顛末を話す。
「明日出発ってとき、整備しようとガレージに行くんです。そしたら、盗まれていました」。
嘘のような本当の話。日本一周の相棒、YAMAHA SR400が跡形もなかった。
「参りました」と桜井さん。バイクはみつからない。
思わずどうしたんですか?と聞くと、桜井さんらしい、痛快な答えが返ってきた。
「バイクは盗まれたんですが、旅行するためのお金は残っています。それで、中国に渡りました」。
中国ですか?
「ええ、そうです。ただ、特別な理由はないんです。本当に適当に、文化大革命とか、毛沢東とか、なんとなく授業で聞きかじっていたのを思い出して。じゃあ、行ってみるか、と」。
中国は、北京。
「12月だったので、そりゃそうなんですが、北京の夜が、あんなに寒いって知らなくて。路上で寝るつもりだったから、とにかくデパートに行って寝袋を買ったんです」。
すると、ひと騒動が起こる。
「日本円で1万円くらいだったと思います。たぶん、むちゃくちゃふっかけられたんでしょうね。『あいつ1万円で寝袋を買ったぞ』って。フロア中が大騒ぎになったんです」。
あちこちで、声があがる。もちろん、なにを言っているかはわからない。小走りでデパートをあとにした。
「たぶん、24~5年前だった当時のレートで1万円というと、中国では相当な額だったんでしょうね」。
もっとも、せっかく買った高価な寝袋も、北京の冬には役立たなかった。
日本一周では、経験できないことばかりだった。
最初の宿は、中国人の労働者と相部屋。途中から北京大学に留学していた日本人学生と知り合い、日本人や韓国人が暮らす学生寮に潜り込み、自転車も購入。毎日色々な国の留学生と、色々な場所へ出かけた。 万里の長城には、中国人の女性と出かけた。
「友人の彼女がガイド役を買ってでてくれたんです」。会話はできないので身振り手振りでなんとかコミュニケーションをとった。
歴史的な建造物や悠久の歴史をみて、刺激的な経験や食文化と出会い桜井さんは心を決める。
「戻ったら食の世界へ進もう。そして、必ず自分の店を持とう」。
ふらふらと3ヵ月ちかい中国での暮らしを経て、改めて「飲食に進む」ことを決意した桜井さんは帰国後すぐにパソコンに向かう。
出会ったのは一本のキャッチフレーズ。「起業家輩出企業」。レインズインターナショナルが掲載していた求人広告のキャッチフレーズだった。
ここだと思い、さっそく、応募ボタンをクリックした。
水が合った。すぐに店長に昇格。1年目には統括店長に抜擢された。
「当時のレインズは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。私は一般社員から店長に。すぐに数店舗を統括する立場も頂きバリバリ働いていたのですが、ある日、バイク通勤の途中で大きな事故にあってしまって。幸い、命には別状なかったんですが、1ヵ月程度、入院を強いられました」。
レインズインターナショナルに就職してから仕事を追われつづけていた。仕事は何より大好きだったから、長時間労働も苦にならなかった。
「仕事はむちゃくちゃ楽しかったし、飲食店を経営するうえでのロジックを学ぶこともできました。ただ、病院のベッドで、天井を見上げながらふと思うんです。『オレがしたかったのは、なんだっけ?』って」。
立ち止まることで、みえてきたものは、命を受けた桜井さん自身がやるべきことだった。
「改めて料理の世界へ!自分の店を出す為!と思って、転職活動を開始しました」。
ふたたび、パソコンに向き合った。料理ができること、飲食をさらに深く学べること。
「レインズは、経営のパッケージが一級品でした。だから、あれだけのフランチャイズの展開が可能でした。肉も、野菜もカットされたものがくる。職人いらずで、再現性を極限まで高めたオペレーションは極めてシンプル。だけど、私がやりたかったこと、やるべきことは、手造りの温もりがある飲食だったんです」。
「そのとき出会ったのが、手羽先唐揚げや鳥料理の専門店を運営している会社でした」。
ちなみに、広告のキャッチがふるっていた。
「『昼はサーフィン、夜は仕事、メリハリ付けてはたらいています』。面白い会社だなって。本店にも食べに行って料理のレベルも確認しました。当時は、料理は出汁から引いて作り、店長になれる人材が育ったら出店をしますと謳っており、料理長候補も募集していましたから言うことはなかったです」。
調理スタッフで入ったものの、すぐにフロアも兼任するようになった。
レインズインターナショナルのときは、イメージ先行だったが、今回は、慎重だった。
「一番落ち着いてなくて忙しい店にして下さい。と人事担当者へ伝え、配属先へ。幸いなことに、私が思い描いていたやり甲斐のある環境で、いい上司にもめぐまれました。1人は、最初の担当スーパーバイザーです。ある日、店に来て私が清掃したばかりのトイレで『もう少しきれいにしたほうがいいな』っていいながら、スーツ姿で便器を磨き始めました。しかも素手で。すみません代わりますと伝えても、決して怒らず笑いながら『お客様が素肌で利用するとこだからな~。ここで生活できるくらい綺麗にしないとな~』と掃除を続け、やらせてくれないんです。とにかく衝撃を受けた出会いでした。色々と仕事のチャンスをくれた人で、私にとって社会人として必要な事はこの方から全て教わったように思います」。
「もう一人は最初の店長で、伸びてたつもりはありませんでしたが、鼻っ柱をバキバキに折られました(笑)。その方と出会うまで、オペレーションや指示指導、店舗のコントロールなら負けないと思っていたんです。実際、前職でも高い評価をいただいていました。でも、大間違いでした」。
今まで経験してきた50~100席程度の店とは桁違いの大箱。300席以上はあった。
「その人は、かげになっている部分までイメージして指示を出しお店を動かしていくんです。起こる事に対処するのではなく、想定して先回りして、何が起こっても対処できるように、時間の貯金を作るような営業スタイルでした。当時の私では、何がどうなっているのか、イメージもついておらず。その人は何を見ていて、何を考えているのか、当初は全くわからなかったんです」。
この人からは、飲食店における分業、各職責における責任の範疇、仕事の棚卸から優先順位等を教わり、飲食店運営における考え方に多大に影響をもらった。
今でも心から尊敬する2人だそうだ。
当時、桜井さんは20代前半。2人は若い桜井さんを可愛がり、同時にきびしく指導してくれた。その結果、桜井さんは20代で店長に抜擢されている。
30代、40代が主流だった当時では考えられない抜擢人事だった。自分で経営しているつもりで1店舗1店舗を担当していった。会社の期待に応えるように、業績をあげる桜井さんは貴重な人材に育っていった。
しかし、その一方で、会社が大きく変化する。
・・・続き
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