in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社バルニバービ オーガスト 代表取締役社長 田中亮平氏登場。
世界大会2位の大仕事。
警察官だったというだけで異色のキャラだが、大学生時代に柔道で世界学生2位になったというから驚きだ。見た目はシャープで、スタイリッシュ。柔道で世界の強者たちとたたかった姿は思い浮かばない。
柔道と田中亮平。その両者のつながりを探るところから、今回のインタビューはスタートした。
「物心ついた時から柔道着を着ていましたから、柔道をはじめたきっかけを聞かれても困っちゃうんですよね」。
今回、ご登場いただいたのは飲食業界をリードする「バルニバービ」のグループ会社「バルニバービ オーガスト」の代表取締役社長、田中亮平さん。
話はつづく。
「オリンピックを意識したのは、中学3年生の時です」。
個人戦で全国優勝したそうだ。
「まさか優勝するとは思ってなかったから、びっくりした」と田中さん。じつは、全国大会に出場できただけで満足していたそうだ。
それが、結果、全国でいちばん。決め技については聞きそびれたが、この優勝が田中さんの人生の決め手となったのはたしか。
「優勝したことで推薦をいただき、産大高校という、兄も通った関西では名門の高校に進みました」。大学ももちろん、柔道で進学。軽量級が強かったという「京都産業大学」に進学し、全国2位が2回、3位が1回という好成績を挙げている。
「大学になると強制されることもなくなって練習も手を抜くからだんだん弱くなって。いままで負けたことがない相手に負けちゃいました」。
いままでは柔道が日常すぎて、特別な思い込みはなかったのかもしれない。
熱心に柔道を語ることはない。
「だけど、やっぱり、負けたら負けたで悔しくて。なんで負けたのか。はじめて自分の柔道について考えるようになったんです。 力・技・スピード。自分の長所・短所を分析して、改めて相手に向かっていくことで、勝ち負けとはまた異なる世界を楽しめるようになったんです」。
田中さんはトップレベルの選手になると、力の差はそうないという。これも、大学になって気づいたこと。
バンカラとは言わないが、恋とか、ファッションとかとはちがったもう一つの世界。大学を卒業した田中さんは、まっすぐに警察に就職する。
「私たちの世代は氷河期だったもんですから、民間で柔道をするのはむずかしかったです。それで、警察に就職したんですが。私の場合は大阪府警の看板を背負って試合をするのが、本業というか」。
もちろん、その本業で、大仕事をやってのけた。
新たな試合。
田中さんは1976年、大阪府門真市に生まれている。お父様は大阪市内で問屋を経営されていた(現在は、お兄様が継がれ、30億円の売上を上げておられるそうだ)。
「警察に3年間務めたあと、その実家の仕事に参加します。ただ、父と兄が2人で経営していて、私は社員のなかでもいちばん下っ端です」。
<世界学生2位も、父や兄には頭があがらない?>
「そうですね。実家にいたのは2年くらいで、色々あって、追い出されてしまうんです。バルニバービに転職するきっかけと言えば、きっかけですね(笑)」。
27歳の時だったそう。
「それまで、アルバイトもしたことがないでしょ。警察に就職しましたが柔道が本業でしたし、そのあとは実家。そういうこともあって」。
じつは、田中さん。実家の仕事を辞めたあと、3ヵ月間、ニート生活を送っている。
その時を振り返り、「自由ってむちゃくちゃしんどいのがわかった」と笑う。
柔道で鍛えた筋肉が「何かをしろ」と、田中さんの背中を押したのかもしれない。
ともかく、27歳。はじめて、きらびやかな世界へ、踏み入る。田中さんの、新たな試合が始まった。
アルバイトから正社員、へ。配属先は旗艦店「GARB」。
<初めての仕事はいかがでしたか?>
そうたずねると「イジメられた」と笑う。
「もう27歳、正社員になったのは28歳でしたから、年下の子から煙たがられたのか、イジメられて。私自身が勝手にそう思い込んでいたのかもしれませんが」。
飲食は未経験だったが、社会人経験は長い。警察という大組織も経験している。
「初めて、代表の佐藤(バルニバービの現会長、創業者の佐藤裕久さんのこと)のセミナーを受講したあとに、感想みたいなのを書くんです。はっきりと覚えてはないんですが、飲食というのは組織が弱いと生意気なことを書いたような(笑)。ただ、それをみた佐藤が『あいつを正社員にしろ』と。そういう意味では、評価されたのかもしれませんね」。
かくして、正社員へ。配属先は、当時の旗艦店、南船場の「CAFE GARB」。
「GARB」は1995年に創業。田中さんと同世代のトレンドに敏感な人は、だれもが知っていたんじゃないだろうか。カフェという文化をつくったのは、まちがいなく「GARB」である。
「最初はドル箱だったんです。ただ、私が配属されたのは、カフェってだれでもできるから競合もつぎつぎできて業績が落ち込んでいた頃です。たしか、7年目くらいだったかな」。
4階建、4フロア。3階、4階に客の姿はなく、2階は稼働するのも、週末のランチだけ。「GARB」の名だけが、残る。へたをすれば伝説になっていたかもしれない。
「業績が悪いから、当然、給料も安いです。労働時間はぎゃくに長い(笑)。とにかく、当時は終電が終わっても帰してもらえないから、車通勤です。でも、パーキングを利用してたら給料がそれで飛んじゃう。もと警察官ですから、だからどうしたかは、内緒ということで(笑)」。
給料の額を聞いて、驚いた。たしかに、顔をしかめたくなる。
<辞めようとは思わなかった?>
思わず、そう聞いてしまった。
「たしかに、そういう選択肢があったと思いますが、私の場合は辞めるというよりどうすれば給料が上がるのか、そっちを考えました。売上と利益、シンプルですが、まずそこだな、と」。
現実と向き合い、そこから逃げない。世界と戦ってきた人の発想は、やはりちがう。もっとも、飲食の経験は少ない。言うは易く、行うは難しである。しかし、田中さんは、その難しいことをやってのけてしまう。
GARB、ふたたび。
「たまたま、高校時代のともだちが通信系の営業をしていて。まだ、ガラケーの時代だったんですが、彼と、戦略を色々立てて、今でいうWEBでマーケティングを仕掛けます」。
「GARB」という資産を活かした戦略的なアプローチを取る。「GARB」の魅力が改めて拡散されていく。それが功を奏したんだろう。最盛期にはウエディングのパーティーで、4フロアが各4回転することになったという。
「1000万円いくかいかないかだった利益が、8000万円くらいになった」と田中さん。とんでもないV字回復。いや、もはや、以前の「GARB」を追い抜いていたにちがいない。
田中さんの給料も、もちろん、うなぎのぼり。スタッフの給料は、田中さんの権限だったから、そちらも、改善した。
ちなみに、「GARB」はバルニバービが子会社化を進めるきっかけとなる。
この「GARB」で田中さんは9年連続、前年比の売上・利益をクリアしたと言っている。10年目はさすがに、売上はクリアできなかったが、利益ではクリアした。
なにが、それだけ、田中さんの背中を押すんだろうか?
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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