2025年1月23日木曜日

株式会社吉吾 代表 原田祐輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社吉吾 代表 原田祐輔氏登場。

本文より~

ジョッキーの祖父と、ウンコ拾いの孫。

その昔、大阪府の南部の都市、岸和田市に競馬場があったそうだ。春木競馬場というらしい。調べてみると現在は岸和田市中央公園となっていて公園南西側にトラックの跡が林として残っているとのことだった。
じつは、今回ご登場いただいた株式会社吉吾の原田社長の父方のお祖父様は春木競馬場でジョッキーをされていたそう。だから、今回は、そんな話から始まった。
「私が生まれた大分県の中津市にも競馬場があって、私が小さなころ、祖父はこちらに移り調教師の仕事をしていました。私が小学2年生のときに両親が離婚して、父についていった私は、父がまだ若かったこともあって、祖父母に育てられました」。
なんでも、競馬にかかわる人たちが暮らす村社会だったそう。「私も馬のちかくで育っています。お手伝いもしていました」。お手伝いは「ウンコ拾いだった」と笑う。
「そういう世界で生活をしていたからでしょうね。ジョッキーになりたいと思っていた時期もありました。ただ、中津のような地方競馬から中央競馬に行くなんて、まず無理。今、うちの店の一つを運営してもらっている叔父さんがいるんですが、その叔父さんくらいで。だから、やめておけと。それに背も高かったから」。
ジョッキー、調教師の祖父と、ウンコ拾いの孫。馬の嘶き、藁の匂い、勝つか負けるか勝負の世界。そんななかで、原田社長の少年期は過ぎていった。

打ち込むことがない青年はどこへ行く?

お祖父様に似て、運動神経はよかったはず。ただ、スポーツもそうだが、一つのことに打ち込むことはなかったという。実際、中学では野球部に入部したが1年でやめている。
「飽き性だった」と原田社長。
その一方で、「調子に乗りすぎていじめられたこともあった」と笑う。中学3年生のときのこと。
「そのことがあって、周りをみることができるようになった」。一つの挫折が一つの経験値となり、視界を広げたということだろうか。
「中津の外をみたいという思いはつよかったですね。その頃には経営者という目標もあった。高校を卒業したあと、工場のアルバイトで100万円をためて大阪にでました。大阪に来てからはパチンコ店で勤務します。じつは、こちらでサービスのイロハをマスターします」。
なんでも、先輩のスタッフに叩き込まれたそう。「接客でいうとパチンコは超一流なんです」。原田社長はそういって当時を振り返る。
「とにかく、細かいことまで、うるさくいうんです。ちょっとでも汚れが残っていれば文句を言われる。最初は、なんでやねん!って(笑)。負けず嫌いなところもあったんで、心のそこで反発していたんです」。
「その頃には経営の本も読んでいたし、啓発本も漁っていました。だから、ちょっと偉いんだぞって気持ちがあったのかもしれません。でもね。怒られるのもイヤだし、なにくそって、言われたこと以上にやっていると、だんだんとサービスの意味がわかってきて、成果というか、周りからの評価もちがってきたんです。数年後にほかのパチンコ店で仕事をするんですが、その店のスタッフとはサービスに対する心がけに歴然とした差があって、サービスの本質を改めて認識することができた。もちろん、このサービスのイロハは今も私の原点になっています」。
「はじめて仕事が面白くなった」ともいう。ただし、まだこれだと思うものには出会っていない。ともだちに誘われ、名古屋に行き、半年後に、今度は福岡へ。そして、ふたたび大阪へ。
「大阪では、自動販売機や携帯の販売のような仕事をしていましたか゛、上手くいかなくて」と苦笑する。

からあげの聖地。

「当時は、ひと儲けをねらっていたんですね」。
<でも、つづかない?>
「つづかないというより、打ち込めなかった。仕事も色々と経験しましたが、打ち込めているのは、今の、この仕事だけなんです」。
<では、その「中津からあげ」を始める経緯を教えてください>
「まだ私が小さな頃の話ですが、父親が『からあげの店をオープンしたい』と言っていたんです。実際、鶏肉を買ってきて、つくった唐揚げをもって関西や関東の知人に『どうだ?』って食べてもらっていたときがあって。私も父についてどこにでも行っていましたから、その記憶があったんです」。
<つまり、お父様が言い出しっぺ?>
「そうですね。父自体は再婚して、無謀なことはしないようになって、その話はなくなっていたんですが(笑)。たまたま、ともだちの結婚式があって実家に帰ったときにですね。父と、のちに事業をいっしょに始める仲間に、からあげ店をしてみようという話をして」。
<中津といえば、唐揚げの街。唐揚げで起業って話にもなるんですね?>
「いまでは全国区ですが、中津は唐揚げ店がいっぱいあって。中津からもう少し南に行くと、鶏天でしょ。もっと下っていくとチキン南蛮」。
大分だけではなく九州に鳥料理の名店が多いのは、戦後の食糧難対策として政府が養鶏を推進したことが背景にあるらしい。「中津からあげ」は中国の鶏料理を再現したことからスタートしているとのことだ。保存食でもあったらしい。
醤油に生姜、にんにくなどの薬味を加えたタレに漬けた鶏肉を使用するのは、そういった起源から。
「唐揚げっていえば小麦粉って人も多いと思いますが、中津の唐揚げは片栗粉で軽やかなイメージです。それでいて、鶏肉に味がしみていてジューシーです」。
「中津からあげ」のブランド化をめざす「聖地中津からあげの会」のホームページには「肉の中心まで味がしっかり付いていて、噛めば噛むほどにあふれ出る肉汁がたまりません」と書かれている。
原田社長も、当然、会の一員。
「中津にはからあげ専門店がたくさんあって、いい意味で競いあっています。私のように小さなころから『中津からあげ』を食べてきた人間が今、唐揚げ専門店を経営している。そういう意味では、代々受け継がれてきたソウルフードだし、中津の人間には、これで起業という志がある人が少ないから専門店もたくさんあるわけです」。
さすが「からあげ」の聖地。食べるだけではなく、「からあげ」でビジネスも生まれている。

駒込にオープン。「中津からあげ」が東京人の心をつかむ。

話がとんでしまったが、原田社長は、今、打ち込めることをみつけている。原田社長が言う通り、「この仕事」だ。
「父と、ともだちと、『じゃぁ、いっしょにやろう』って話になるんですが、思い立ってすぐにオープンできたわけではありません。起業したのは私が26歳のときですから、2年程、準備に時間がかかっています」。
料理人のともだちは、からあげ店で修業。原田社長は様々な店で店舗運営の経験を積み、資金をためた。めざすは、独立。ただし「最初から東京で勝負」というのは、こちらの頭にまるでなかったから、その話を聞いて驚いた。
「『中津からあげ』っていうローカルなソウルフードの価値を最大化するには、じつは大分ではなく、東京だと。ただ、起業前に東京で暮らしますが、さすが東京ですね。家賃も高いし、怖気づきます(笑)」。
そりゃ、大分に比べれば、家賃だって高い、高い。
「1号店をオープンしたのは、ちょうど東北大震災のあとです。たまたま駒込でコロッケ屋さんの居抜きがでてきて、家賃も安くて、6坪13万円。掘り出し物件です」。
「ここなら」と、祖父譲りの勝負勘がはたらいた。
<いかがでしたか?>
「6坪の小さなショップでしたが、月商300万円。料理人のともだちと2人ですから利益も十分にでました。正確には父親にも資金をだしてもらっていたので3人ですね」。
「中津からあげ専門店」が、東京で暮らす人たちの心をつかむ。
そして、いよいよ原田社長の快進撃が始まっていく。
ここから先は、ホームページの年表で、その快進撃を追いかけていこう。

・・・続き

株式会社吉吾 代表 原田祐輔氏

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