2021年4月18日日曜日

株式会社カームデザイン 代表取締役社長 金澤拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社カームデザイン 代表取締役社長 金澤拓也氏登場。


本文より~

幼稚園児、大工をめざす。

ご両親はベーカリショップを経営されていたらしい。ベーカリショップと横文字でいうと格好いいが、いわゆるパン屋である。
「私の親族は、ほとんどみんな商売をしているんです。そういう意味では、私も、おなじなんでしょうね。昔からサラリーマンになるなんて思ってもいなかったです」。今回、ご登場いただいた株式会社カームデザインの代表取締役社長、金澤氏はそう言って笑う。
「へぇ、そうなのか」と聞いていたが、それを思っていた年頃を聞いてビックリした。中学生時代には、具体的な就職先を決め、「独立に至る工程表までつくっていた」というのだから、尚更、驚いた。
「裕福じゃなかったし、親もパン屋でしょ。早くから仕事に対する意識はあったほうだと思います。パン屋はしんどくて、イヤやみたいな/笑」。
なんでも小学校に上がる前から、将来は大工になろうと思っていたらしい。「うちの家はボロボロで、風呂もない。そういうのが、いやで。大工になれば、なんとかなるだろうって/笑」。
この一言からは早熟じゃなく、素直な少年時代が浮かび上がる。しかし、もう一つ驚くのは、この時の思いがジャンルはちがっても、いま実現しているということだ。
昔の園児が、ほほ笑んでいる。

ともだちは、紙と鉛筆。

「子どもの頃は、いわゆるカギっ子です。今でもそうですが、昔は、もっと根暗な奴でした。遠足に行っても隠れて絵を描いているような笑」。
ただし、隠れていたかったから絵を描いていたわけじゃない。絵を描くのが、ただ単純に大好きだったから。紙と鉛筆があれば、時間を忘れた。ともだちは、紙と鉛筆、そういう少年だったようだ。
「もっとも、中学になってからは、ちょっと悪ぶったりもしたんです。でも、中学2年だったか、3年の時だったか、就職したいなって思う会社がでてきて…。もちろん、『今のままじゃ到底、無理』とわかっていました。少なくとも『就職実績のある高校くらいには進学しなくちゃ』です」。
それで、進学したのが大阪市立工芸高校。専攻は、建築デザイン科。偏差値は高い、高い。「そうなんです、中2の時の、私の偏差値は40くらいでしたからね。行けるわけもなかった。だから、1年くらい教科書や問題集にかじりついて。ええ、なんとか60オーバーの工芸高校に進学できました」。
ところで、金澤氏がその時、希望し、高校卒業後、実際に就職したのは、「三座建築事務所」という会社である。1941年設立の老舗の建築事務所だ。
「公共工事とかを得意にされていました。学私は、こちらで4年勤務させていただきました。退職理由ですか? じつは、まずは大手で4年と、昔から決めていたんです」。
昔というのは、中学生の頃のことだ。
しかし、金澤氏は、凄いことをサラリという人だ。工程表をつくり、それに沿って進むなんて、なかなかできる芸当ではない。しかも、だれかに教わったことがないから、またまた驚かされる。
とはいえ、いまだ、工程表の道半ば。この先、どうなっていくんだろう。

だったら、オレは独立だ。27歳のこと。

「まずは大手で、つぎは小さな事務所という計画です。今度は、小さな事務所で、仕事漬けの日々を送ります。その頃ですね。『飲食店って面白いな』と思いはじめたのは。その頃から、飲食店の設計やデザインを手がけはじめます。2社目でも4年勤務させてもらって、27歳で独立します」。
これも、いえばプラン通りだが、正確には、おなじ事務所のスタッフが引き抜かれたことがきっかけだったようだ。「結構、負けずぎらいなんです。あいつが引き抜かれたんだったら、オレは独立だ、みたいな/笑」。
不安はなかったですか? と聞いてみた。
「もちろん、ありました。飲食店だったら、とにかくオープンしたらお客様が来るでしょ。設計事務所はオープンしたからって、お客が『こんにちは』って来るわけじゃない/笑」。
「2~3年は下積み生活ですね。私1人です。そのうち、チラホラと依頼をいただいて。幸いだったのは、お手伝いさせていただいたお店が繁盛して、2号店、3号店と出されるケースが多かったこと。それで、だんだんと評判になります」。
金澤氏にターニングポイントを一つ挙げていただくと、31歳の時、「ダイヤモンドダイニングの仕事をさせていただいたこと」だという。その時の話も伺った。

・・・続き

株式会社カームデザイン 代表取締役社長 金澤拓也氏

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