2019年6月19日水曜日

株式会社千吉 代表取締役社長 長縄竜彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社千吉 代表取締役社長 長縄竜彦氏登場。

本文より~

おかずは、漬物。

吉野家ホールディングスには、様々な企業が連なっている。「吉野家」「はなまるうどん」「京樽」…、そして、カレーうどんの「千吉」。
昔からこうだっただろうか。久々に「千吉」のホームページをみると、カレーのバージョンがマシマシになり、おばんざいメニューの種類も同様に、マシマシになっている。
今回は、吉野家グループのなかでも「カレーうどん」を切り口にした独自メニューで注目の「千吉」。その代表取締役、長縄氏にスポットをあててみる。
小さな頃の話をうかがうと、長縄氏は「極貧だった」と笑いながら切り出した。「もともとは兵庫県で、親父のほうの家族5世帯で住んでいたんですが、父親のギャンブルが原因で岡山へ引っ越します。ま、『引っ越す』ではなく、『逃げる』がただしい表現です」。
1週間、ご飯と漬物だけ。そんな時もあったそう。「貧乏といったって、子どもの頃はそれが当たり前ですからね。辛いとかそういうのではなかった気もしますが、まぁ、強烈な生活でした。ただ、漬物だけでも、人間、なんとか飯は食えます/笑」。
飯は食えたが、家族の間はどうだったんだろう。両親は、長縄氏が高校を卒業すると、離婚。長縄氏も、高校を卒業してから飛び出すように家をでている。
「たぶん、私が高校を卒業するまで離婚を待ってくれていたんでしょうね」。
長縄氏は小さな声で、そう呟いた。

自立は、貧乏からの脱出を意味している。

「いちばんうえの姉はやんちゃですが、2番目は大人しい。私もじつは、高校生までは大人しい性格だったんです。得意な科目は算数に美術に図工…、体育とかはそう得意ではなかったですね」。
高校は18キロ離れていたから、バイク通学が許されていた。
「私が、かわったのは高校2年の時。思春期だったんでしょうね。三角関係みたいなかんじで、親友と泥沼化しちゃうんですね。そういうのが重なって。ある意味、ふっきれたんでしょうね。もう、だれかを気にするのはやめよう、やりたいように生きよう、と」。
「そうですね。あの頃は恋愛も友情もなんなんだって。その一方で、貧乏から抜け出すことは頭から離れていません。だから、大学にも行かず就職しました。靴屋です」。
昔の話だ。休日は少なく、残業は山盛り。4年つづけて退職した。
大学に進んでいたら、卒業する時だ。もちろん、長縄氏に新卒の肩書きはもうない。

最初の、はなまる。


「あの頃は、とにかくハードな時代でしたからね。とはいえ、人間ですから、休みも欲しいし。それで、転職を考えたんです」。
それが、「はなまる」さんとの出会いですか?
「そうです。当時は、エイジェンスという社名です。エイジェンスはもともとアパレルの会社で、『はなまるうどん』は、会社の一事業部としてスタートします。店名の「はなまる」は、創業者が子どもの頃から『はなまる』をもらったことがないので命名したのは有名な話ですね。この創業者とお会いして、『この人と一生、仕事をするんだ』って。ハイ、運命的な出会いでした」。
「はなまるうどん」の1号店は、香川県の高松市にオープンする。
「当時は創業者と、もう1人の方と私の3人です。本業は、アパレルでしたから、事業部をわけて実験的に讃岐スタイルのセルフうどんを始めました」。
創業者に惹かれ、創業メンバーの1人として、長縄氏の「はなまる」人生がスタートする。
「最初は一杯180円だったんです。だいたい周りのお店もそうでしたから。コーヒーチェーン店の、コーヒー1杯分ですね」。
どうでしたか? 
「そうですね。正直にいうとだめでした。思っていた以上じゃなかった。それで、ある程度、ノウハウがたまった1年後に思い切って勝負にでたんです」。
それが、100円?
「そうです。2000年に1杯のうどんが100円です。そうしたら、朝10時開店で、12時には完売。もちろん、100円ですからね。利益もそうはでない。私らの人件費を正確に計算したら、どうなっていたでしょうね/笑」。
もっとも、この時からスタイルは確立している。うどんをオーダーし、てんぷらをチョイスし、おにぎりを取る。
「お1人様の単価はだいたい500円くらいでした」。
あっという間に「うどん」がなくなる。それは長縄氏たちの未来がひらけていくのとおなじ意味だった。
ともかく、消費者が最初に「はなまる」に「はなまる」をつけたのは、この時だろう。
・・・続き
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