2019年3月5日火曜日

アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 河村征治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 河村征治氏登場
本文より~

高校1年生、ロスに渡る。

「高校の時から、飲食店をしたいと思っていた」と、今回ご登場いただいた河村征治氏は語る。「実をいうと、『起業する』ことがまず先にあって、業種については『これだ』というものがなかったんです。いくつもある選択肢のなかから飲食業を選んだのは、店内に1-2時間滞在してもらえるレストランであれば差別化できると思ったからです」。
高校生で、この発想。できるもんじゃない。できたとしても「手っ取り早いから」となるのではないか。
高校1年の冬休み。ともだちと2人で出かけたアメリカ・ロサンゼルスの1週間の旅が、何かしらの化学反応を起こしたのだろうか。
「そうですね。なんとなくですがサラリーマンになりたくないと思ったのは事実ですね」。
河村氏は、1977年、石川県金沢市に生まれる。3人きょうだいの長男である。父親はNTT、母親は銀行に勤めておられた。「子どもの頃から要領がいいほうでした。下に弟と妹がいたこともあって/笑。家族で、登山やスキーにでかけました。学校の成績は中の上って奴ですね」。
河村氏の実家は、金沢駅から10分の立地。中学は8クラスあり、ともだちに影響を受けてバスケットボール部に入部している。
「高校も10クラス。こちらは、進学校です。バスケットボールはつづけるんですが、2年の時に退部します。だんだん音楽に惹かれ、バンドを組み、私は主にギター担当していました」。
「ただ」と河村氏、実は演奏よりも、ライブを企画運営するほうが楽しかったそう。当時から、経営者的なことに興味があったのかもしれない。

じゃ、フランスに行くか。

「高校3年生の夏休み、もう1回、アメリカに渡ります。今度は1ヵ月の短期留学です。高校は進学校だったんですが、進学は考えず、卒業後もまたアメリカに向かいました/笑」。
3週間に亘り、カリフォルニアやマイアミを旅したそうだ。アメリカは、河村氏に何を教えてくれたのだろう。
「日本とアメリカ、意外に近いと感じはじめていました。高校卒業後は先ずフランスに渡るんですが、料理でナンバー1はフランス料理と思っていたので、じゃぁ、フランスに行くかと」。
3ヵ月、語学学校に通い食べ歩き。「そうです。その時に、まだ修業中の下村浩司さん(現・「エディション・コウジシモムラ」オーナーシェフ)にお会いし、アドバイスをいただきます。『東京なら、このレストランがいいよ』と6店舗挙げてくださって、私自身も帰国後に食べ歩き、四ツ谷にある北島亭の門を叩きます」。
叩くというのは、文字通り、4回門を叩いて、最後に開いたという意味。つまり、3回、面接で落ちた。「やっぱり、北島亭がいちばんだったんです。だから、落ちても、ほかで、という選択肢はなかったんです」。
「北島亭」については、いうまでもないだろう。「当時からナンバー1でしたね」と河村氏。それだけ著名なフレンチレストランだ。その後「当時、2番手だった先輩が、知り合いの店を立ち上げるというので、ついていきました。」。

料理人、河村。経営者を目指す。

河村氏の人生において、「北島亭」に就職した意味合いは大きい。仕事のベースは、いまも、すべて「北島亭流」だからだ。高校を卒業してから25歳まで、24時間、365日、頭を占めるのは「料理」の二文字だった。
日本での修業を終え、ふたたびヨーロッパへ。フランスで修業し、帰国。グローバルダイニング等レストランで働く一方で、アイスクリーム製造卸事業を開業している。
「アイスクリーム事業は、仲間4人とはじめます。アイスクリームが評価されて、都内のカフェに卸したりイベントを行ったり。ただ、経営者としての、私のちからがなく解散することになりました。あの時、職人ではだめだ。経営者にならなければ仲間を守れないとそう思ったんです」。
その後、河村氏は、縁あって、大手商社にて商品開発のコンサルタントをはじめる。
「数社のコンサルを勤めた後、グローバルダイニングに正社員として入社しました」。このグローバルダイニングで、副社長にまで上り詰めている。この一つの事実からも河村氏の力量がわかるというものだ。
そこを辞めて、金沢ですか?
「ええ、33歳のときに独立します。『東京で』とは考えなかったですね。あの頃、頭にあったのは地方発でブランドをつくるということでした、それで、故郷の金沢をスタートの場所に選びました」。
・・・続き
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