2019年3月26日火曜日

株式会社更科堀井 代表取締役 堀井良教氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社更科堀井 代表取締役 堀井良教氏登場
本文より~

1961年、麻布にて、生まれる。

創業は1789年だから、2019年で230年目となる。今回、インタビューに答えてくれたのは、更科そばの名店、9代目の社長、堀井良教氏だ。
堀井氏が麻布十番に生まれたのは1961年。当時は、まだ地下鉄も通っておらず、孤島のようだったそう。麻布だけではなく、当時は、都内でも交通が不便な街があったに違いない。明治時代には、田んぼや畑がいたるところにあったという話を伺ったこともある。今しか知らない者からすれば、イメージするしかない空想の世界だ。
その世界に、やがてアスファルトの道が延び、次々とコンクリートのくさびが打たれ、巨大なビル群が競うように天空をめざす。地下では、地下鉄のネットワークがアリの巣のように地下深く、広がる。2019年現在、今や取り残された街は、東京中さがしても、もうどこにもない。

堀井家と、麻布十番。

「東京は、たしかにずいぶんかわりましたね。私は、3歳で幡ヶ谷に引っ越します。私どもの創業の地である麻布にもどったのは、私が30歳。出店した『更科堀井』が好調になった頃です」。
麻布は、創業の地であり、堀井家にとっては、縁の深い土地である。
「そうですね。戦前、麻布には『麻布銀行』があったんですが、うちも、かなり出資していたようです。副頭取も堀井家からでています。7代目の時には店の敷地にお稲荷さんを祀っていたようです。話に聞くところによれば、猿好きの7代目が、そこに100頭の猿を飼っていたらしいです/笑」。
その昔、将軍にも献上され、大名たちも舌鼓を打った名店だ。銀行だって、猿の話だって、わからない話ではない。ただし、次の話にはおどろいた。
「じつは、その7代目の時に、一度、店をたたんでいるです」。
「えっ」と、言いたくなる。
「7代目、つまり、私の祖父が、かなり遊び人で。これも聞いた話ですが、麻布からタクシーを飛ばして熱海まで行くような人だったらしいです」。
店の経営も、あったもんではなかったのだろう。不況も重なり、昭和16年。長く、長くつづいた暖簾を下すことになる。麻布の町の歴史から「更科そば」の名前が姿を消した瞬間だ。
ちなみに、ウィキペディアには<麻布永坂町は古くから更科そばで有名であり、町内には更科そば本舗の布屋太兵衛がある>とある。この「布屋太兵衛」が当時の店名。<正岡子規が、永坂を詠んだ俳句がある>とも紹介されていた。
「蕎麦屋出て永坂上る寒さかな」が、それである。

堀井氏。

「私が、子どもの頃には、もう『永坂更科』はありました。こちらは戦後、うちの店と更科そばを惜しんだ投資家たちが出資してできた店です。祖父の代ですね」。
投資家たちの手によって「更科」の文字が、ふたたび麻布永坂町に現れる。「堀井家は、出資比率は少なかったものの祖父も、父も、こちらの会社の経営にも携わりました。創業家ということで、配慮されていたんだと思います。私自身は、そういうことも知らず、中・高・大と何不自由なく育ちます。後継者と言われたこともないし、私自身も、考えたことがなかったですね」。
中・高は早稲田大学付属。大学は慶応義塾大学。いうまでもなくエリートコースである。しかし、帝王学のためではなかったようだ。後継者と言われたこともなかったし、9代目になるとも思っていなかったのは、事実だろう。それだけ、創業家という意識が薄れていた証ではないだろうか。

やるか、やらないか。託された未来。

「中・高は水泳部、大学は棒術部です。大学は、文学部哲学科。本が好きだったんで、最初は大学院に進むつもりだったんですが、もう少し現実的な勉強をしたほうがいいと思って、アメリカでMBAを取得する計画だったんです。でも、そのタイミングで、父親から『更科堀井をやらないか』と言われて。ええ、突然です」。
突然だったが、二つ返事で「やります」と言ったそうだ。もう大学生。父が言わなくても、自身のルーツも、堀井家のルーツも知っている。「永坂更科」との関係も、多少は理解できるようになっていたはずだ。
「そうですね。私が『やる』といわなければ、父は、店をつくってなかったでしょうね。父の代だけで終わなら、再興する意味もないですから」。
父の思い、息子の思い。8代目と9代目の思いが交錯する。ただし、本家本元、「更科堀井」を後世に残すという思いは同じだった。
堀井氏、23歳。
もう孤島でもなんでもない麻布十番に、歴史ある名店、総本家「更科堀井」が帰ってくる。
・・・続き
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