2018年5月9日水曜日

株式会社鷹丸 代表取締役 相原正孝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鷹丸 代表取締役 相原正孝氏登場。
本文より~

私の運をぜんぶあなたにあげるから。

馬から落ちた。いい具合に落ちないと怪我をする。「あれって、前に落ちちゃうとだめなんです。だって、馬にふまれて、ボロボロになっちゃうから」。
今回ご登場いただいた相原氏が、まだ20歳前後の時の話である。兵庫県の尼崎から上京した相原氏は、ジャパンアクションクラブのオーディションに一発合格。もっぱら時代劇に出演し、切られ役や落馬役を演じていた。
「千葉真一さんにも何度か会いましたよ。なけなしで上京しましたが、採用いただいたおかげで生活には困りませんでした。給料は月8万円でしたが、寮も飯もありましたからね。もっとも貰ったのは、ちょい役ばかり。だから、給料はぜんぜん上がらない。実は、オレが23歳のときに、同じジャパンアクションクラブにいた今の奥さんと知り合って、彼女はTVにも出ていたりしてたんですが、『オレがいいって』いってくれて。それで、2人して辞めたんです。月8万じゃ、まともな生活ができませんから。それからいっしょに住んで、籍も入れて。オレのほうは水産会社に転職して。2人の生活が始まるんです」。
相原氏は、むろん、奥様に生い立ちからの話をされている。
「うちの奥さんは、とにかく強運で、TVに出てもすぐにいい役をもらうような子で。そんな強運の彼女が、オレの話を聞いて『わかった。私の運をぜんぶあなたにあげるから』って、いってくれたんです。そうだね。運かどうかはわからないですが、彼女と出会ってからオレの人生は確かにかわりました。くすぶってばかりの目の前が急に開けたような」。
そんな大事な奥さんが仕事ばかりに熱中する相原氏に愛想をつかして、出て行ってしまった時には、さすがに相原氏も途方に暮れるしかなかった。
「そう、あの時は、オレもヤバイな、と思って。彼女の故郷の北海道に行ったりして。ええ、もちろん、彼女は子どもといっしょに無事、帰ってきてくれたんですが、代わりに1週間くらい、その時、世話になっていた水産会社の仕事をさぼったから、クビになっちゃっいました。いや、正確にいえば、オレが『辞めてやる』っていったんだった/笑」。

少年、独り。

相原氏が生まれたのは、1972年1月25日。複雑な家庭環境だったそう。それでも、父親が経営する会社が傾くまでは仲のいい家族だったという。「うちの親父はとにかく酒飲みで。酒飲んで仕事をするような人で、オレもさんざん殴られて育った。それでも、小学校3年までは飯も食べることができたし、幸せでした。でも、それからは借金取りが来たりして」。
正義感が強かったのだろう。小学3年生の相原氏は、木刀を持って借金取りたちに立ち向かったそうだ。「親父が逃げて、おふくろがオレたちを育ててくれました。でも、いつだったかな、オレが14歳の時に、おふくろが問題を起こして姿を消すんです。最後にオレたちにつくってくれたのは、白ごはんとにぼしを醤油で炒めただけのおかず」。
当時、相原氏は14歳。年の離れた弟は施設に引き取られたが、相原氏は頑なに拒み、住み込みで仕事ができる居酒屋を転々として暮らしたそうだ。どうやってだか思い出せないが、中学校にも何度か行ったことがある。
「あの頃は、暴走族で。あかんこといっぱいしていましたね。でも、ふつうだったら、中卒で終わりなんでしょうけど、オレは、友だちが通っている塾に潜り込んで、3ヵ月くらいやったかな。ただで勉強させてもらって、尼崎産業高校って高校に進学します。授業料とかは、奨学金かなんかで、なんとかなったんやったと思いますが、制服を買うことができなかったから、そやね、1ヵ月くらいで卒業してしまいました/笑」。
高校を退学したあとも、就職もせず、その日暮らしのような日々だった。独りになってから4年。18歳の時。「友だちに伊藤って奴がいて、そいつがダンサーになるために上京するいうんですね。で、『じゃぁ、オレは役者になるわ』いうて、土方をして1万円もらって、それを財布に仕舞って新幹線に飛び乗ったんです」。
行いはけっしてほめられたものではなかった。しかし、奥様には「運」がないように映ったのだろう。だから「運をあげる」といった。
・・・続き
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