2017年9月19日火曜日

株式会社imprise 代表取締役社長 大野博司氏登場。

本文より~

親戚たちが住む、不思議なアパート。

東京都足立区出身。両親が小さな頃に離婚し、その後は、母が女手一つで育ててくれた。兄弟は2つ下の弟と10歳下の妹。ただ、階を降りれば、親戚の子がいたりした。
「祖母が所有しているアパートに、母方の親戚がみんな住んでいたんです。だから、階を降りれば親戚の子がいたりして。今思えば不思議な空間ですね。建替えはしましたが、今も親戚のほとんどはそこで暮らしています。学校は、小・中とも私立です」。

14歳、中学、退学?

「正確にいうと覚えていないんですね。義務教育だから卒業はしているはずなんですが」と前置きしつつ「卒業式の記憶がない」と笑う。
「そうです。1年の時は勉強もしていたんですが、中学2年生の時ですね、地元で通っていたボクシングジムの先輩に誘われて、初めてクラブに連れて行ってもらって。あれで、私の人生が180度かわりました」。
初めてみる風景。音楽と空間に魅了された。
「格好いいなぁって。それからほぼ毎日通います」。
中学2年。大人びた格好をしても、14歳である。からだも小さい。表情にも幼さが残る。
「スタッフの人もみんな可愛がってくれるんです。今はダメだと思いますが(当時もダメですが)そのうちクラブでバイトもするようになって。時給は300円でした」。
14歳。学校生活を送っていた少年が、いきなり大人の世界に迷い込む。しかし、それは森のなかを探検するように楽しかった。
「私が初めて、イベントをプロデュースしたのは94年だから、14歳ですね。一番多くのイベントをプロデュースしていたのは96年、97年です」。その頃になると月に20~25本のイベントを動かしていたそうだ。
「私のイベント・パーティは、ストーリーを大事にしていました。アーティスト有りきではなく、イベントのコンセプトを練り、ストーリーを組み立て、そのストーリーにあったアーティスト・パフォーマーをブッキングし、照明一つにも気を配り、イベントごとの空気をつくりだす。その短い時間のために何ヶ月も準備して、ということが楽しくて仕方ありませんでした」。
97年でも、まだ17歳。学園祭が精一杯の年頃に、早くも大野氏はプロデューサーとして頭角を現す。生意気だったのだろうか。それとも、純粋だったのだろうか。
「私が、16歳~17歳といえば、パーティ・ブームの頃です。私も担がれて、いろんな雑誌に掲載されました。ただ、私が大事にしたかったのは、音楽や空気です。そう思っていても、いろんな、たとえばミーハーな気分でパーティを企画する、そういう学生さんたちとひとくくりにされてしまって、だんだん(私がやりたいことと社会が求めることに)方向性の違いを感じるようになっていきます」。

19歳で、足を洗う?

「足を洗うという表現はヘンですが、わりとしっくりくるような気もしますね。ともかく19歳でいったん業界を去ります。結婚もきっかけとなりました」。
19歳で早くも引退。
「大手の中古車買取会社の下請けの会社で洗車のアルバイトをはじめました。何しろ、中卒ですから(笑)」。
元請けの買取店店長に声をかけられて、名古屋に赴く。洗車を毎日やっていた頃、名古屋の店舗が東海の旗艦店でエリアマネージャーもおり、アルバイト(営業)として入社させてもらった。人生初の営業だったのだが、とたんに才能が目覚めたようだ。なんでもアルバイトにもかかわらず、全国トップクラスの営業成績を残したらしい。
「アルバイトでも月収は40~50万円だったものですから、たぶん、社員にしたほうが、経費が浮くと思われたんでしょうね」。正社員の初任給は20万円。たしかに、経費は、半分で済む。ところがインセンティブがつくようになると、その額は10倍に膨れ上がった。
足を洗って、とたんに高収入なサラリーマンになる。ここが大野氏の凄いところだ。もっとも、才能と書いたが、それだけではない。努力も凄い。先輩のトークをノートに書き写す。それを繰り返し、言葉にし、セールストークをみがきあげた。雀荘から出てくるお客様を雨の中2日間待ったこともあります。その後お買上げいただき、スーツもいただきました。
「もう、寝る間もなくという感じでした。それでも楽しくて仕方なかった。何も知らないから、先輩のセールストークがどんどん自分のものになっていくんです。テクニックに長けてくると、面白いように買い取り、売れました」。
ただ、「いくらでも売れること」が、退職の引き金となる。
・・・続き

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