2017年9月12日火曜日

株式会社ノヴァリンク 代表取締役 川筋祐次氏登場。

本文より~

三人兄弟の次男坊。

「マハラジャ」。 ひと昔前、一世を風靡したディスコの名称である。名づけ親はデヴィ夫人。連日、連夜、若者たちが集い、カクテル光線の下で、乱舞した。
「私が入社したのは、マハラジャの最盛期です。もともと事務方として入社し、経理をしていました」。今回、ご登場いただいたのは、そのマハラジャ出身。株式会社ノヴァリンク代表取締役の川筋 祐次氏である。
「私は、母方の実家である山形で生まれました。三人兄弟の次男坊です。親父は鹿児島出身で、東武鉄道の路線バスの運転手でした」。父親は典型的な九州男児。18歳になるまで、怖くてまともに会話もできなかったそうだ。

「山形は母の実家で、私が育ったのは、東京と埼玉。小学2年生から坂戸市で暮らし、いまも実家はそちらにあります」。
いまでは親分肌の川筋氏だが、子ども頃はどうだったんだろう。
「中学校までは野球をしていました。兄も、そうだったもんですから。ただ、兄は高校でも野球をしますが、私は、中学で卒業。帰宅部に甘んじます(笑)」。ただ、進学した高校は、スポーツ学校だった。

4500名のマンモス校。

「大宮にある高校で、超マンモス校でした。生徒だけで4500人はいたかな。普通科が20クラス、スポーツ科が6クラス、私が通っていた自動車科が6クラス」。
自動車科?
「当時は、車とかバイクとか乗り物が大好きでした」。好きが高じてバイクの免許をこっそり取って、それがばれて停学になる。厳しい父親は、怒らなかったのだろうか。
「そういうのは、ぜんぜん。厳しかったのは躾です。挨拶とか、返事とか。『ひとに迷惑はかけるな』『嘘をつくな』『人との付き合いは借金をしてでもしろ』。口酸っぱく言われたのは、特にこの3つです。ただ、親父より学校が厳しくて」。
さすが4500名をコントロールする学校である。ルールも、校則もハンパなく厳しかった。だから、高校を卒業すると糸が切れたたこのように、舞った。

赤い車に惹かれて。

「大学には進学しませんでした。かといって、就職するわけじゃない。ぷー太郎って奴です」。幸い、大学生になった友達も多い。遊ぶ相手は困らなかったそうだ。
「10ヵ月くらいフラフラしていました。だいたい私は天性の次男坊なんです。だから、何も考えない(笑)。そろそろ就職をしないといけない雰囲気になって、コカ・コーラに就職します。ただそれも制服が恰好よかったからなんです」。
川筋氏が、就職するのは高校を卒業した翌年2月ことだった。「赤いルートカーに乗ってね。当時は、女子高生たちが手をふってくれたりしたもんです。もっとも仕事はハードです。いまのようにペットボトルもないし、缶もスチールです。酒屋にコカ・コーラを卸すだけでたいへんでした。でも、いやじゃなかった。何しろ、給料もよかったから」。
この仕事はおよそ3年つづけた。

転職先は、六本木。マハラジャを経営する「ノヴァ・インターナショナル」。

「マハラジャを展開するノヴァ・インターナショナルに転職したのは、その次です。私は事務方だったもんですから、本社の六本木勤務です。事務方だけで70~80名くらいいました。それだけマハラジャがすごいことになっていた時代です」。
レジにお金が入り切らず、段ボール箱に札束を投げ込んだのはこの頃のことだそう。連日、連夜、マハラジャに莫大な金が落ちた。「もっとも私は営業じゃなく経理だから、気楽なもんです。朝9時~夕方6時まで。アフターファイブが何より楽しみってタイプでした」。
ちなみに「マハラジャ」は1980年代のバブルを象徴する高級ディスコである。会社をいくつもに分割し、全国チェーンを実現した。その核となるノヴァ・インターナショナル株式会社の代表は、菅野諒氏。「最後の20セント」「深海魚」「泥棒貴族」などの名店を次々、オープンさせた稀代のクリエイターである。
・・・続き

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