2017年1月10日火曜日

株式会社ダイニングファクトリー 代表取締役社長 人見洋二郎氏

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイニングファクトリー 代表取締役社長 人見洋二郎氏登場。
本文より~

未来への助走期間

今回、ご登場いただいたのは株式会社ダイニングファクトリーの代表取締役社長、人見洋二郎氏である。人見氏が生まれたのは1977年2月18日。父親はいるが、めったに現れない。直接、会った回数もそう多くはなかったらしい。「初めてあった時に『おまえが、洋二郎氏か』って言われたのを覚えている」と笑う。「父親は、水戸で有名な建築会社の社長で、市議会議員もしていたそうです」。
だから、人見家は、いつも母と、2つ離れた兄と人見氏の3人だった。「兄貴とは昔から仲がいいほうです。もっとも性格は反対で、兄は大人しいんですが、私のほうは中学からグレてしまって」。
中学生の時からバイトにも精をだした。だから、学校に通う時間がない。教師が「この日だけでは」という日だけ、仕方なく教室に向かったそうだ。
ところで、どんなバイトをしていたんだろう。
「だいたいは土方ですね。ガソリンスタンドでもはたらきました。高校に行くつもりはさらさらなかったですね。でも、就職もせずに中学を卒業してもバイトばかりしていました」。
バイト先ではリーダーシップを発揮しこの時期から仕事に対する資質がうかがえる。勉強よりも仕事、しかし暗中模索の日々が18歳まで続く.....

99の案を消去して、残った一つの目標。

「18歳から宇都宮で暮らします。そうですね。当時は『10代は、死ぬほど遊んで、20代は、死ぬほど真面目に仕事をしよう』というのが、ポリシーみたいなもんでした。最初に遊ぶほうですからね。20代になっても、いろいろツケが残りました(笑)」。
ホームページをみると、1992年3月に茨城県水戸市立笠原中学校卒業とあり、1992年4月からアルバイト生活がスタート。1996年4月に、株式会社KKレジャーオフィスという会社に入社している。20代、一歩手前の19歳の時だ。「キャバクラです。こちらで4年、仕事をしました」。
ハードワークなうえ、ルールも厳格だったそうである。音を上げることはなかったが、からだも、心も休まる時はなかった。しかし、この4年間は、萌芽の時期でもあった。
「この頃です。ともだち4人で、いつも『面白いことをやろうぜ』って言ってたんです。いうだけじゃなく、100個、面白いことを紙に書いて、それを消していくと、『一流の会社をつくる』っていうのが残ったんです。いちばん難しそうだけれど、いちばん面白そうだ、っていうことで」。
「一流の会社」。その定義はなんだろう。23歳、その答えを知りたくて、人見氏は、ある上場会社に就職する。

中卒、大卒と机をならべ、善戦する。

就職したのは、2000年の7月。「意欲はあったと思いますが、中卒でしょ。上場企業に相手にしてもらえるはずがありません。でも、30社受けて、1社だけOKをくれたんです。それが、現在は、飯田グループHDとなっている、飯田産業という会社でした」。
周りは大卒ばかりである。「そうですね。もう23歳なんで年齢はかわらないんですが(笑)」。社会人としては、先輩だとしても、それで尊敬されることはない。しかし、大卒たちとは、仕事に対する覚悟が違っていたのは、事実である。
「そうですね。私にとってはハードでもなんでもなかったんですが、周りの人は、たいへんだ、とぼやいていました」。たしかに、簡単でもなければ、楽ちんな仕事でもなかったはずだ。
しかし、そこはやはり、経験と覚悟の違いなのだろう。人見氏は、1年目から早くも頭角を現す。1年目の年収は、同期のなかでもトップクラスで、500万円だったそうである。
同期のなかには、「学歴は、モノを言わない」と悟った人も少なからずいたことだろう。中卒と大卒。その違いは、肩書ではなく、それまで何をして、何を考えきたか、実際、それに尽きる気がする。その後も人見氏は、業績を残しつづけ、同期より早く出世もする。27歳で、課長職に就いた。
・・・続き
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