2016年8月9日火曜日

AFURI株式会社 代表取締役 中村比呂人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”AFURI株式会社 代表取締役 中村比呂人氏登場。
本文より~

高校進学までの中村比呂人。

ホームページを観て、いいなぁ、と感嘆する。観ているだけで、気持ちが満たされるホームページに出会うのは、めずらしい。純白な背景に鮮明なラーメンの写真がならぶ。文字の大きさにも、コピーの内容にもイヤミがない。ラーメン同様、こちらのデザインも淡麗系である。
今回、ご登場いただいたのは「AFURI株式会社」の中村比呂人氏。二人兄弟の長男で、次男はTVにも何度も登場している「麺処 中村屋」店主の中村栄利氏である。
「祖父は、鮮魚や青果も扱う商店を営み、父の代でセブンイレブンを経営し、その後、不動産事業も始めました。母は、バスガイド出身で、歴史好き。骨董や、書が好きで、父が事業家とすれば母は文化人でしょうか」。
少年時代の中村氏は、子どものくせに分析好きな、「小憎たらしい子どもだった」らしい。
もっとも、素直な一面もあったようで、小学6年生から通いだした学習塾には、休まずに通っている。
教えることが上手な講師たちから、学ぶことの楽しさを学んだ。様々な学校から集まる優秀な生徒達との競争も楽しかったそうだ。
いったん好きになれば、素直に耳を傾ける。そういう意味では、小さな頃から独自の判断軸をもっていたとも言えるだろう。高校は、「海老名高校」に進んだ。

「司法書士に見切りをつけ、雪山にこもる」。

「大学は法学部に進みました。ただし、勉強よりサーフィンやスノーボードに明け暮れました。大学生の時にしか中々出来ないことを出来るだけやろうと。約2ヶ月ある夏休みと春休みには、カリフォルニアやバリへサーフトリップをしたり、雪山のペンションでアルバイトをしたり。とにかく色々な経験をしたかったのです」。
しかし、しゃぶり尽くすように徹底的に遊んだのも、大学3年の夏まで。秋からはスイッチを入れ替え、司法書士を志し、しゃにむに勉強を開始する。1日平均10時間のハードワーク。これを2年間つづけた。
「でも、本試験の前になって、気が付いてしまったのです。司法書士は、自分が本当にやりたい仕事ではないと。それで、全てキッパリとやめました」。2年間の努力をあっさり捨てられる。それだけ、真剣に仕事について考えたとも言えるし、急に違う何かが、舞い降りてきたとも言える。
その後、「やりたい仕事とは何か」を考える為に、今度は、雪山にこもった。
北海道の有名なリゾートホテルで勤務しながら、中村氏にとっては、文字通り、「こもる」だった。
「屋内プールの監視員をしました。中は暖かいのですが、外は、雪。ガラス張りの天井から見える雪を眺めながら、自問自答し続ける日々でした」。
「いろいろ考えた結果、すとんと腹に落ちたキーワードは、“ものづくり”でした。しかも自分は、飽きっぽいので、“ものづくり”の中でも、毎回違うモノをつくらないといけない仕事をと考え、映像の世界に飛び込みました」。

AD時代から、人気のレストランでのバイトまで。

映像の仕事は、人気職種である。にもかかわらず、中村氏は、民放キー局で勤務を開始する。中村氏自身も、「ラッキーだった」。と回顧するのも頷ける話だ。
ともかく「男子一生の仕事」と決意を固めて飛び込んだ。しかし、1ヶ月ほどで違和感を感じ始める。
「1ヶ月くらいで、これはオレのしたかった“ものづくり”はこういうものではない、と思うようになるんです。もう少し規模の小さなもので良いから、一つのものを細部の細部まで作り込んでゆける仕事がしたかった。でも、『男子一生の仕事だ』と決意してスタートしたものですから、流石にまだ早いと。最低でも1年は続けてみようと心に決めて頑張りました。で、1年間目一杯やったのですが、当初に感じた想いは変わることなく、1年半で辞めるのですけど」。
ADの仕事は、文字通り過酷な日々だった。1年のなかで、4時間以上眠れた日は、数える程しかない。「何日も徹夜の編集作業が続き、一度、ちゃんと家に帰ってシャワーを浴び、暖かい布団で4時間眠れる日があった。あの布団に入った時の幸福感は今でも忘れられない」。と真顔で語っている。「でも、いまになって思えば、いい経験です。あの時を思い出せば、大体のことは乗り越えられます。そして、ここでは「仕事とは何ぞや」という社会人としての根本の根本を学ばせてもらったと思います」。
ADを辞めたのは、24歳の時。
24歳でTV局を退職し、その後、飲食に興味を抱き始める。
そして、レストランで勤務した理由は、飲食もまた、ものづくりであるということ。しかし自身の性格からいって、生涯キッチンに立って、料理をし続けることは難しい。であればどうするか。
「経営者になろうと思ったのは、その時です。ただし、経営者になるには、現場もわからないといけない。ちゃんと現場にモノを申せる経営者になるためには、現場を知らなければいけない、と思ったんです」。
クレバーな中村氏らしい一言である。
「どうせやるなら、好きな店で思って、当時、流行っていたレストランでキッチンのアルバイトをしました。当時人気の店で、面白い先輩や後輩もが沢山いました」。
この店で、多くの才能ある若者と出会った。この「飲食の戦士たち」でも、同店出身の経営者を何人か取材させていただいている。
「そうですね。才能ある人が多かったです。私といっしょに、『ZUND-BAR』の立ち上げに参加してくれた長谷川氏と出会ったのも、この時です」。
「彼がいたから、うちのいまがある」と中村は長谷川をそう評する。

・・・続き

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