2016年8月9日火曜日

株式会社アッカ・エンタープライズ 代表取締役 水落大稔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アッカ・エンタープライズ 代表取締役 水落大稔氏登場。
本文より~

東京、福岡、熊本、佐賀、福岡、広島、そして、東京。少年の旅。

東京の築地生まれだが、記憶はない。父の転勤にともなって、生まれてすぐ福岡に引越したからだ。「私の父は、生命保険会社に勤めている典型的な転勤族でした。幼稚園の時に、熊本に引越し、佐賀でも暮らします。小1から小3までが福岡で、小4から中2まで広島です。ようやく生まれ故郷の東京に戻って来たのは、中学3年生になってからです」。
絵が上手く、コンクールで入賞することも少なくなかった。スポーツは水泳。いろんなところで暮らしたが、水泳はずっとつづけていた。印象に残っているのは、広島。なんでも、生徒たちがバイクに乗り校内を走り回っていたらしい。
「あれに比べると、東京は、まともだなと。不良でも、いちおう勉強していましたから(笑)」。

方言のおかげで、バカにされたこともあった。何より、生意気な奴が来たぞ、と軽いいじめにもあったそうだ。どうやら生まれ故郷は、手放しで歓迎してくれなかったようだ。
「それにもう一つ驚いたのは、進学が当たり前だったこと。向こうでは、就職もふつうの選択肢だったもんですから、『え、みんな進学するんだ』みたいな。そういう意味でいえば、私は、広島的な人間だったんでしょうね。何しろ、小4から中2まで、暮らしていましたから。ハナから進学するつもりもありませんでした」。

美容師になろう。

「進学せずにどうするかというと、『美容師になろう』と漠然と考えていました。ところが、教師から『とにかく高校には進学しろ』と言われて、ラグビーも少しやってみたかったので、ラグビー部のある高校に進学しました。とはいえ、結局、ラグビーはしなかった。ほかに楽しいことが一杯あったからです」。
3年後、高校を卒業する時も「美容師になろう」と思って、教師に相談する。「ところが、『だめだ』って、言われて。『それじゃぁ、料理人は?』というと、『それならいい』と、教師が背中を押してくれました。それで専門学校に進むんです」。
美容師には進んでなろうと思っていたが、料理人は、どちらかといえば消去法での選択である。「子どもの頃、料理人の山高帽を観て、かっこいいなと憧れたことがあるには、あるんです。そういう経験があったから、料理人が、次の選択になったのかもしれません」。
しかし、この単純な選択は、けっして楽な道にはつづいてはいなかった。

料理人に世界に飛び込んで最初に、出会ったのは「徒弟」という制度。

高校生を卒業した水落氏は、料理の道に進むため「調理師学校」に進学。学校ではフランス料理を勉強していたそうだ。専門学校を卒業した水落氏は、「シェラトンホテル」で勤務する。
「当時は、ホテルと言っても料理人の世界は、とにかく殴る、蹴るという完璧な徒弟制度でした(笑)」。ヒエラルキーでいえば、新人がいちばん下。水落氏も、何回も「辞めよう」と思ったそうだ。「それでも結局、1年半つづけ、上司の転職に相乗りするかたちで、私も『ホリデーイン豊橋』に転職します。私だけではなく、上司の下ではたらいていた料理人みんなでの大移動です」。
師がいうことには、逆らえない。この「ホリデイインホテル」で3年半勤め、今度は、水落氏が後輩を引き連れて、「出光御津マリーナ」に転職する。オープンニングで、用意されたのは、料理長のポストだった。
「でも、ちょっと話が違ったんですね。マネージャーも兼務するはめになって、心身ともに疲弊してしまうんです。それで、連れてきた連中を、また引き連れて退職します。彼らの就職を斡旋し、私は1人、東京の実家に戻り、引きこもりました」。
料理人という仕事をはじめ、合計6年半。ということは、24、25歳の頃の話である。料理人の世界には、馴染めたが、その一方で、会社組織に対し、納得できない部分が少なからずあったのだろう。このような不満が、やがてイタリアへ、水落氏を向かわせる。
「そうですね。そのあとシェラトン時代の上司の下で勤務したりもするんですが、そこでも、納得ができなかった。それで、イタリアにつてができたこともあって単身、イタリアに渡りました。もちろん、イタリア語なんて何一つわかりません」。

・・・続き
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