2014年11月12日水曜日

ITALYO JAPAN株式会社 代表取締役 田邉圭介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ITALYO JAPAN株式会社 代表取締役 田邉圭介氏登場。
本文より~

快速ランナーが駆けた少年時代の話。

1972年4月4日、田邉氏は、千葉県の流山市に誕生する。流山市は千葉県の北西部にあり、東京都と隣接している。人口も少なくはない。小学校の生徒数も少なくはなかったはずだが、田邉氏は生徒たちのなかでも最も目立った存在だった。
足が速かったから、田邉氏は笑う。
小学3年生くらいになると、全学年でトップに立ったそうだ。「県の大会にも参加しました。でも、さすがにその大会では上がいました」。
上には、上がいる。実は田邉氏はもう一度、その言葉を噛みしめることになるのだが、それはもう少し先の話である。
とりあえず快足ランナーだった田邉氏は、圧倒的なスピードで注目され、中学ではサッカー部に入ったが1年からレギュラーに抜擢された。部の誰よりも足が速かったからである。中学時代はスポーツだけではなく、勉強でも評価された。成績が常にトップクラスに位置していたからである。「あの頃は、親も期待していたと思いますね。東大にも入れるかも知れない、みたいな(笑)」。
むろん、そううまくはいかない。高校受験に失敗。滑り止めに受けた高校に進学した。「そちらでも、サッカーをしました。1年からレギュラーです。私もプロを意識していました」。
千葉県もけっしてサッカーが弱い県ではない。進学した学校も、弱小ではなかった。そのなかで、田邉氏は1年時から評価されていた。プロを意識しても、当然だった。しかし、現実はそう甘くなかった。上には、上がいたのである。
「静岡に遠征に行った時です。上には上がいることをリアルに体験しました」。
その時、田邉氏が戦ったのは、のちにJリーガー、しかも日本代表ともなる選手たちである。田邉氏は、怪物と評したが頷けなくはない。

社会に出て、ビジネスマンとして頭角を現す。しかし…。

勉強は二の次になっていた。高校卒業。付属高校だったから、ストレートに上に行くこともできたが、田邉氏は異なる道を選択した。1浪の末、とある大学に進学。
大学を卒業した田邉氏は、名古屋に本社を構える印刷会社に就職。東京支社に配属された。この時代に、田邉氏はビジネスマンとして頭角を現すことになる。
就職した田邉氏は、メキメキと頭角を現し、周りの信頼を獲得し、当時、最大手のクライアントを担当することになった。日本を代表する化粧品メーカーである。1人で年間5億円の売上を叩きだしたのもこの時。むろん、社内では断トツ1位の成績だ。
「29歳になるまでお世話になるんですが、このクライアントを担当した3年間は凄まじいほど仕事をしましたし、そのぶん、会社でも一目置かれた存在になっていました。しかし、これほどの大手を3年間担当するというのは、非常に体力も知力もいることなんです」。
もう、これ以上の相手はない。3年経ったある日、田邉氏はジブンが燃え尽きたことを知る。
30歳を前に、燃え尽きたジブンを見詰め直した。「何がしたいんだというより、何が好きかということをシンプルに考えたんです。そうしたら、『イタリア』という国が頭のなかに浮かんできたんです」。
サッカーもそう。映画ももっぱら、イタリア映画。ファッションも、イタリアのブランドが好きだった。パスタもピザも大好物。知らないうちにイタリアという国の文化に惹かれていた。それに気づいた。さっそく、イタリアに渡った。


・・・続き

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