2013年6月26日水曜日

株式会社稲田屋本店 代表取締役社長 梅原俊治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社稲田屋本店 代表取締役社長 梅原俊治氏登場。
本文より~

鳥取県、山間の村で。

長兄はいまもそちらにお住まいらしい。そちらというのは、今回、ご登場いただく「稲田屋本店」、代表取締役社長、梅原俊治の実家。住所は「鳥取県西伯郡南部町御内谷」となる。米子駅から車でわずか40分らしいが、地図で確認してみるとたしかに閑散とした山奥である。「40軒程度の集落だった」と梅原は語っている。
梅原家は、この山間の村の地主であるとともに、明治初年からつづく「梅原酒造」の蔵元でもあった。ところが戦後、食料米が不足するなかで、「酒米を食料米に」という時の政府が発令した企業整備法により、5~6軒の酒蔵が1つに集約され、「梅原酒造」は姿を消すことになる。
むろん梅原は、当時の様子を知らない。終戦の時にはまだ3歳に過ぎない梅原である。戦後の食糧難の時代も、それを当然のように受け入れ育った年代。明治生まれの母の躾はきびしく、教育にも熱心だったそうだ。とはいえ、豊かな自然に囲まれ、山も川も少年にとっては、かっこうの遊び相手。机に向かってばかりはいられない。
「当時は、鰻もいたんですね。鰻を獲って帰ると母親がほめてくれるから、がんばって獲った記憶があります。松茸も、秋にはよく採れました。こちらも採って帰ると母が喜んでくれるんです」。
夏は川に潜り、秋には山に入る。
自然が持つ脅威も学びながら、少年、梅原はこの山間の村で大きくなっていった。

12歳離れた兄。

梅原は、7人兄弟の6番目で5男坊である。長兄とは12歳離れている。梅原が小学校高学年にもなれば、長兄はもう20歳。その長兄や姉は、戦後、父が米子に出店した酒屋を手伝うようになっていた。
この長兄も含め、上の兄姉全員が「米子東高校」に進学。「米子東高校は県内でも有数の進学校だったんです。でも、私と言えばあまり勉強もせず、山や川を相手の毎日だったんで進学前には結構、焦りました(笑)。兄たちがみんなそこだから、私一人違う学校に行くこともできないでしょ。結果的には、なんとか滑り込むことができました」。
「高校時代の思い出というのは、この齢になるとだんだん薄れてくるんですが、父親が畑仕事もしていたものですから、そちらの手伝いもありましたし、米子の店も手伝っていましたから、早くから商売というのを観てきた気もします。大学ですか? 大学は『早稲田』に進みました。長兄が行きたくても家業の関係で大学へ行けなかったものですから、『かたき討ち』だと受験したんです」。
「最初は、私1人で東京に行く予定でしたが、上京する段になって当時家業を手伝っていた3男の兄も『いっしょに行く』と言い出しました。それで2人して、大都会『東京』に出てくるんです。彼もがんばって、現在日本蕎麦屋さん向けの食材商社「日辰」を経営しています。のちに今回の話にも登場します」。
奨学金をもらう一方で、ガソリンスタンドのバイトもした。家庭教師もした。長兄からも仕送りをもらった。離れて、いっそう兄弟のきずなはつよく結ばれていった。・・・つづき
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