2023年9月12日火曜日

オタギラカンパニー株式会社 代表取締役 沼田慎一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”オタギラカンパニー株式会社 代表取締役 沼田慎一郎氏登場。

本文より~

夜の世界に憧れた高校生。

沼田氏は1970年5月5日、横浜鶴見に生まれている。父親は旭硝子の研究員、母親は専業主婦、2つ下に弟が1名。弟は、現在、大手金融会社で役員を務められているそうだ。
大手企業の宿命だろうか。父親は転勤族で、沼田兄弟も小学校で3校、中学校で2校。中学では横浜から遠く離れた兵庫県の高砂市に異動。沼田氏も、そのまま神戸高専に進学し、同校を卒業している。
小さな頃は体が大きかったという沼田氏。小学校でサッカーをはじめ、中学でもつづけるつもりだったが、中1の3学期、高砂市に引っ越すとサッカー部がなかった。
第二次ベビーブームの世代ではないが、横浜の中学で13クラス、高砂でも6クラスあったそうだから、生徒数は今と比較すれば格段に多い。
「高専に進んだのは、大学受験もないし、楽しそうだと思って。私服だったのも進学理由の一つなんですが、毎日、何を着ていくかを迷ってたいへんでした笑」。
高専に進み、半年間はサッカー部にいたが、黄色い声援がないとわかり退部する。
「あの頃はなんででしょう。夜の世界に憧れていました。バイトも色々、経験します。高校2年から飲食でバイトをはじめ、3年でバーなど、夜のバイトを始めます」。
バイト代はディスコ代に消えたと、笑う。
「転機の一つは、あるバーでバイトをしている時にオーナーから声をかけてもらって、バーを一軒任されたことですね。私が19歳の時です」。
面白かったに決まっている。
「アメリカンなバーボンハウスです。最高に面白かったですね。その反動で、学校には1年間行ってなかったです笑」。
バブルの時代とはいえ、19歳でバーのマスター。
「一度、業績を落としちゃった時があって。なんでだろうって冷静にみると、私のともだち専用になっていたんですね。19歳なんてお金も使わないでしょ。すぐさま、ともだちの出入りを禁じて笑。業績は、すぐに回復します。笑い話になるような小さなことですが、私にとっては今も大事にしている教訓だし、飲食ではたらく本当の楽しみを体験できた気がするんですね」。
時代はバブル真っ盛り。夜が昼より明るかった時代である。

倒れかけている喫茶店にあった未来の種。

「高専に1年長くいて、21歳で卒業。ゼネコンに就職します。当時は、22歳の、キャリア1年目の若造の年収が600万円です。張り切って、車を2台持ちです笑。代わりに休みはありません。全員がサラリーマン戦士だった時代ですね。土曜は仕事でしたし、日曜は接待ゴルフ笑」。
深夜まで上司に付き合い、翌朝は8時出社。若くなければ、きつい。
「その頃ですね。父親が脱サラして相模原で喫茶店を始めます。小さな喫茶店です。私が27歳の時、両親から連絡があって、『このままで、店も、家もたちいかなくなる』って。その当時、結婚したばかりでしたし、私は兵庫だったので、ふつうに考えたらどうしようもできないんですが、バーでの経験もあったので、オレならなんとかできると思ってしまうんですね」。
安請け合いだったと沼田氏は笑う。
「うまくいくわけがない笑。ふつうの喫茶店です。ただ、一つだけ、ほかと違う未来の種があったんです」。
それがコーヒー豆ですか?
「そうなんです。父は、研究員だったからでしょうね。父がつくる、こだわりの豆は群を抜いておいしかったんです」。
沼田氏は、タウンページに載っている店を片っ端から訪問する。営業は数だという信念があったそう。
それが、逆転劇の始まりですか?
「いえ、それ以上に、この時、豆のおかげで、い志井グループの石井宏治会長にお会いできたことですね。実は、石井会長相手にプレゼンして、うちの豆を採用していただいたんです」。
お父さんのおかげでもありますね?
「そうですね。ただ、職人気質ですからね。ある時、ある喫茶店からいつもと味がちがうってクレームが入ったんです。その電話を親父がとっちゃって。案の定『そんなはずはない。頼んで取ってもらっているわけじゃない』って笑」。
この一言は、もと研究職だからの一言だったに違いない。「オレのレシピがブレるわけがない」という。

もつ煮込み専門店沼田。

「石井会長のちかくで仕事をさせていただくようになって。会長がしておられた日本再生酒場に惹かれていくんです。それである時、思い切って会長に、『私もやってみたい』と申し上げるんですね」。
大歓迎だったでしょうね?
「いえ、それがちがうんです。やり方を教えてやるから、自分の名前でやれっておっしゃって。今思えば、いかにも会長らしい、ありがたい一言ですね」。
それが『もつ煮込み専門店沼田』の始まり?
「そうです。コーヒー屋が始めた居酒屋です」。
「もつ煮込み専門店沼田」をググってみた。
グルメサイトで高得点がついている。<超人気で、予約をしないと入れない>との口コミがあった。外見は、いかにも昭和な感じ。手書き風のメニューもいい。名前入りの小鉢に入ったもつ煮込みの旨そうなこと。
「こちらの1号店は、新宿三丁目です。私たちのホームグランドは神奈川ですが、やはり新宿で名が知れないと、TVや雑誌にも取り上げてもらえないから」と沼田氏はいう。
相模原の小さなコーヒーショップが、新宿に進出。まるでカテゴリーが異なる「もつ煮込み専門店」をオープンし、客の心を鷲掴みにしていく。

2010年の大ピンチ。

沼田氏にいちばん苦労したのはいつですか?と聞いてみた。
「喫茶店の時ですね。1日15時間はたらいて、サラリーマンだった頃の給料とは比較するべくもない笑。どれだけ頑張ってもキャッシュフローがマイナスで、抜け出せない。黒字化するのに、3年かかりました。もう一つは、2010年かな。いろんな業態を5店鋪くらい出店していたんですが、4、5店鋪目がうまくいかなくて」。
「敗因の一つは商業施設に出店したこと。もう一つは赤坂なのに新宿のつもりでオープンしたことですね」。
商業施設では業態がマッチしなかったという。赤坂は、土日祝に人がいなくなることを想像していなかったということだ。
2010年といえば?
「私が40歳の時ですね。プライベートでも色々とあって。金銭的にも、精神的にも追い詰められていました」。
毎月、赤字。
「背水の陣っていう奴ですね。これで、負けたら終わりという」。
勝算があったわけではなかった。ただ、退けないなら打ってでるしかない。

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オタギラカンパニー株式会社 代表取締役 沼田慎一郎氏

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2023年9月7日木曜日

株式会社せい家 代表取締役 山内勝彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社せい家 代表取締役 山内勝彦氏登場。

トップアンドフレバー(せい家創業者)当時の掲載記事(2010年)

本文より~

無敵のアンダースロー。

シュートはだれにも打てなかったらしい。
「西武にいた石毛宏典選手ってご存知でしょ?」「もちろん」と返答すると、石毛選手と山内氏は同学年で、高校時代、石毛選手率いるチーム相手に「あわや完全試合をやるところ」だったそう。9回終了時、ファーボールが一つだけ。
石毛選手は銚子市立銚子高、1番でショート。山内氏は、早稲田実業のエースナンバーだった。「巨人に篠塚って選手がいたんですが、彼にも打たれたことがなかったですね」。
打者をきりきり舞いさせるアンダースローを、スカウトたちがスルーするわけがない。「プロはもちろん、大学からもスカウトさんが来ました。プロのスカウトに提示されたのは、当時のお金で1000万円だったかな」。
周りは剛腕アンダースローの活躍に期待したが、本人は冷めてしまっていたようだ。江川選手や掛布選手もブラウン管のなかではなく、リアルな対戦相手。ただ、彼らを対戦相手に想定しても、ワクワクしなくなっていたのかもしれない。
「普通なら早稲田大学に進学するんですが、私は野球選手じゃなく、憧れのパイロットになるため宮崎にある航空大学を受験します」。
航空大学ですか?
「そうです。中学の頃にアメリカで1ヵ月滞在したことがあって、パイロットはその頃から憧れの職業だったんです。でも、2回受験して、2回とも不合格(笑)」。
プロ入りを断っての、結果でもある。「進学するのもイヤになって、20~25歳までは肉体系のアルバイトを転々とする日々です」。
アンダースローから地を這う快速球を投げ、無敵だった山内氏の姿はそこにはなかったに違いない。

就職。

「25歳で奥さんと出会って、就職しないといけないと思って26歳でリコーに入社します」。
あのコピー機のリコーさんですか?
「そうです。営業が向いていたんでしょうね。割といい成績を残すことができて」。
話を聞くと「割と」は、控えめな表現だった。入社すぐに頭角を現し、1000名以上のセールスマンのなかでトップの成績を残している。
「リコーには30歳までだから、4年、勤めたことになりますね」。
30歳で結婚もされていますね?
「そうですね。リコーにいたほうが、文字通り利口な選択だった気もしますが、船井総研の船井さんの著書を読んで、『社長になろう』と思っていましたから、安全な道だけを進むわけにはいきません」。
ただ、志は高かった、社長になるのは、まだずいぶん先の話。
「リコーを退職し、雅叙園産業に転職します。36歳の時に家系ラーメンに出会って、惚れ込んでしまいます」。
すっかり惚れ込んだ山内氏は、新事業としてラーメン店をだすプランをぶち上げたが、むろん、OKがでるはずはない。相手は雅叙園である。

家系ラーメンと独立。

「とんでもなかったですね」。
山内氏が「とんでもない」と言うのは、ラーメン店の売上の話。
「私は36歳の時に、横浜家系ラーメン発祥のお店に出会うんですが、当時、20坪、11時~20時の9時間営業で、日商いくらだったと思います? 60万円です(笑)」。
30日として、月商1800万円。年間だと…、頭のなかで電卓を叩いて、確かにとんでもない、と呟く。
「私が修業させていただいたのは、吉本家です。ただ、修業というより…」。
じつは、社長に就任して、東京と横浜に新店をオープンする仕事をしている。「オーナーのもとを離れたのは、私が42歳の時です」。
ついに社長ですね?
「そうですね。『せい家』を経堂農大通りから1本入った路地裏でオープンします」。
いかがでしたか?
「日商60万円の店をみてきたわけでしょ。もちろん、最初からそれはないと思っているんですが。でも、」
でも?
「まさか、7万円とは(笑)」。
せい家の「せい」は「成功」の「せい」、「誠心誠意」の「せい」、「勢い」の「せい」を表している。誠心誠意、取り組んだが、後の二文字は、かたちにならない。
ちなみに、雅叙園在籍時の年収は1600万円。その給料と地位を捨て、進んだラーメン店主という道。そのゴールは、思い描いたものではなかった。暗澹とした気持ちだったのではないだろうか。

霧、晴れる。

「縁があって、モスバーガーを上場に導いた小林先生(当時マツシマの顧問)に相談させていただきました。小林さんは『大丈夫、日商はすぐに倍になるから』と秘策を授けてくださいました」。
どんな秘策ですか?
「看板です」。
看板?
「そうです。路地に入るところにうまい具合にスペースがあったので、そこに『看板をだしなさい』って」。
どうでした?
「看板をだした日から売上がアップして、気づけば日商が15万円になっていました。ええ、すぐ、という表現が正解ですね」。
店主の人柄もいい。むろん、商品はピカイチ、オペレーションも悪くない。だとしたら、あとは「認知」。小林氏は、「せい家」の問題点を瞬時に見抜かれたのだろう。
「やっぱりすごい人ですね。おかげさまで軌道に乗り、水道橋にもオープンし、TVにも取り上げていただけるようになって」。
霧がいっきに消え、人生が晴れ渡る。

3人の占い師。

「私の人生と占い師は切っても切り離せないかもしれませんね」。
山内氏が、突然、スピリチュアルな話を始める。
「22歳の時、新潟へ行ったんです。ふらふらしている時ですね。ともだちの親が占い師でみていただくと、私に映るのはお金オンリーだということでした。お金に貪欲というのではなく、『将来、お金持ちになる』という暗示だったんだろうと(笑)」。
2人目の占い師は、独立時。
「2人目の占い師に映った私もマネーオンリー(笑)。当時、どこに出店するか迷っていてみてもらったんですが、『経堂へ行け。不動産屋があって、その店にはおばあちゃんがいるはずだ、と』、で、そのおばあちゃんに聞けば、『大通りから1本外れたところにあるいい物件を紹介してくれる』と教えられたんです」。
どうでした?
「びっくりするくらい、そのまんまでした(笑)。2月1日にオープンすると予言されていたんですが、それも、なんだかんだと実現します」。
もう一人は昨年(2021年)の話。
「かなり有名な占い師で、パッとみただけで私の思いを言い当てられてしまって」。
「あたるも八卦」というが、すべてかなりの確度であたっている。よく当たる占い師がいるというより、よく当てられる人がいるのかもしれない。
もっとも「せい家」を売却するというのは、占いではなく、山内氏が決めたこと。
「せい家は、順調に業績を上げていきます。4年ほど前になりますが、ある会社が買収の提案をもってくるんです。話は進んでいたんですが、プレリリースを勝手にされちゃって。それで白紙にしました。だって、あれは反則というかマナー違反です」。
M&Aは白紙になったが、これがきっかけとなって事業売却を本格的に進めることになる。売却がうまくいけば、「金持ちになる」という占いは、当たる。
さて、どうなることだろう。当たるも八卦、当たらぬも八卦。

・・・続き
株式会社せい家 代表取締役 山内勝彦氏

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2023年8月30日水曜日

あの隈研吾氏設計の「AOYA CAMPAGNE(アオヤ カンパーニュ)」に世界初の“あんこバー”登場。

7月26日オープンの坂東太郎グループ蛸屋の新店舗「AOYA CAMPAGNE(アオヤ カンパーニュ)」は隈研吾氏設計で、あんこにこだわった世界初の“あんこバー”のコーナー、スゴい人気のようです!

日テレ「ZIP!」やテレ朝「グッドモーニング」にも…。
日テレZIP!
テレ朝グッドコーニング

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2023年8月29日火曜日

株式会社フォレスト 代表取締役 石田浩二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フォレスト 代表取締役 石田浩二氏登場。

本文より~

昭和の真ん中、1961年、生まれ。

登校すると、先生がバリカンをもっていた。
「高校の時の話です。もともと野球推薦で進学したんですが、目が悪くって。ナイター設備がなかったから、少しでも暗くなるとボールを追いかけることができなかった。だから、進学してすぐに辞めちゃった。髪が長くなるのをまって、パーマをかけて登校したら先生がバリカンをもってきてね」。
元通りですね?
「そうですね。推薦をもらうくらいだから、野球はヘタクソじゃなかった。ただ、中学までの話。中学までは俺より上手なのはいなかったんですが、高校に行ったら、俺がいちばん下手くそだった笑」。
東海大付属浦安高校。プロも輩出している。
それからどうされたんですか?
「付属なんで、勉強はしませんでしたが、無事、大学には進学します。ただ、担任の先生には、お世話になりましたね」。
なんでも進学するために、担任の先生が学級委員にも選出してくれたそう。
「生意気な生徒でしたが、その先生に対してだけは不思議と素直でした。だからか、学校にはちゃんと行ってましたね。しょっちゅう早退していたけど笑」。
今回ご登場いただいた株式会社フォレストの代表取締役である石田氏は、1961年、東京の北品川に生まれる。祖父の代から木材商。兄弟は兄が1人。
「兄は今、区会議員を務めています」。
1961年といえば、昭和ど真ん中。平成、令和と時代は移ったが、今の日本のパワーの源は、やはり昭和にある気がする。

72。現OB会会長のベストスコア。

「大学での専攻は生活経済です。ただ、勉強よりスポーツですね。兄もそうなんですが、2人とも東海大学でゴルフをやっています。体育会系のゴルフ部で、月から金は練習漬け。土日はキャディのバイトです」。
キャディをしていると、夕方からハーフくらいをラウンドさせてくれたという。
「レギュラーにはなれなかったけど、面白い4年間でしたね。今、OB会の会長をしています」。
当時のベストスコアを聞いてみた。
「72かな」と笑う。
ちょうどバブル経済に向かっている時代ですね?
「そうですね。ただ、就職はそんなに簡単な時代じゃなかったんじゃないかな。私の場合、熱海にあるホテルに就職します」。
ホテルマンは何年、されるんですか?
「3年くらいですね。当時はもうバブルだったからね。住宅メーカーに進んだ同級生に話を聞くと、賞与が200万っていうんですよ。俺は、20万円笑。これはホテルマンをやっている場合じゃないと思って。それで、友人の紹介もあって住友林業に転職して営業を始めます」。
華麗な転職ですね?
「バブルの頃だったからね。住友林業も人材が不足していたんでしょうね。私は、住宅展示場で営業をしていました」。
当時は住友林業で役員になろうと思っていたそう。
「本気で、役員になりたいと思っていた。成績も悪くなかったし。26歳の時の年収が1260万円。ゴルフは、社内接待で役立ったかな」。

持参金、6000万円。

「ただ、やっぱり、めちゃくちゃ忙しかったですね。火・水が休みで、お客さんが来るのは、だいたい週末の土曜、日曜でしょ。だから、火水は休んでもいいわけなんだけど、追客をするために私なんかは火曜日も出社して仕事をしていました」。
何しろ目指すは住友林業の役員。
最年少で昇進も果たす。
「住友林業を辞めるつもりは、まったくなかった。奥さんに出会うまではね」。
奥様とはいつ知り合われたんですか?
「彼女とは熱海のホテルの同期って関係です。34歳くらいの時かな、同窓会があって」。
最初は、飲みに行く程度の間柄。ただ、だんだんと距離がちかくなる。
「彼女の父親は旅館を経営していましてね。それが、今のうちの創業になります」。
住友林業の役員の道をすてる、大きな決断ですね?
「そうですね。しかも、6000万円持参しています笑」。
持参金6000万円?
「当時の年商は4億円。ただ、借金が30億円。もうコーナーに追い詰められたボクサーです。にっちもさっちもいかない」。
だからといって、当然のことだが、何もしないわけにはいかなかった。

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株式会社フォレスト 代表取締役 石田浩二氏

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2023年8月23日水曜日

株式会社BAKA SOUL 代表取締役 山田能正氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社BAKA SOUL 代表取締役 山田能正氏登場。

本文より~

食事の風景にみる山田家。

食事の時は脇をしめる。背筋はまっすぐと。定規で角度を正された。今回、ご登場いただいた株式会社BAKA SOULの代表取締役、山田 能正氏が小さい頃の、山田家の食事風景である。
「父親は教育委員会に勤める厳格な性格で、就寝時間は9時頃、朝は6時頃には起床と決まっていました」。
「何かにつけ、自由が少なかった」と笑う。高学年になると、自由に溢れた外の世界に興味を持つようになる。
「とにかく、学校が終わっても家には帰らず外で過ごしていました」。
何をされていたんですか?
「外でドッジボールばかりです(笑)」。
親戚が買ってくれるまでゲーム機もなかったし、ギターなど楽器もダメ。外で友達とボールを投げ合うしかなかった。ただし、練習にはなっていたかも知れない。
「たしかに、そうですね。中学に進んでハンドボールを始めるんですが、1年生から試合に出してもらいました。ただ正義感が強く、曲がったことが府に落とせない性格でした。この部活も、活動スタイルが変わり、実は2年生の時に辞めていました」。
それでも、当時ハンドボールが強かった横浜商科大学高等学校にスポーツ推薦で入学している。本人曰く「親と担任との間で勝手に決まっていた」とのこと。冒頭の食事の話と異なるが根っこは同じ。こうあるべきだという敷かれたレールの上を歩き生きてきた。

ハンドボール。ブランク明けエースに勝つ。

一つの反発なのだろうか。ハンドボールのスポーツ推薦入学をした山田氏は、軽音部に入部する。
「ただ、入学から2ヵ月くらい経った頃に顧問に呼び出されて、渋々、練習に参加します。最初は掛け持ちだったんですが、最終的には軽音部を辞め、ハンドボール1本に絞ります」。
中学時代のポジションはゴールキーパー。
「ボールが当たると無茶苦茶痛いんです。だから、やりたくない(笑)」。
それで2ヵ月、顔を出さなかったわけですね?
「そうなんです。でも、顧問に呼び出されて。推薦で進学しているわけですし。仕方なく部活に行くと、テストと称したPK試合を申し込んでくるんですね」。
PK試合?
「私がゴールキーパーです。相手は当時の2年生のエース」。
3年も含め、みんなが見ている中での勝負だったそう。
結果は?
「素直に負けときゃよかったんです。でも、試合だと思ったら、燃えちゃって勝っちゃったんです」。
ブランク明けのキーパーが、エースに勝つ。
「その結果、軽音部との二足の草鞋が許されるんですが、やっぱりハンドボールが好きなんでしょうね。やり始めると軸足がすっかりハンドボールに傾いて、軽音部を辞めます。顧問の先生が理解のある方だったので、キーパーじゃないポジションで使ってくれたこともあって(笑)」。
3年生ではエースのポジションに抜擢される。スポーツ推薦なら内部進学だけではなく有名な大学への道もあったかもしれないが、がさっさと就職に駒を進めた。
「中学のことがあったんで、親がでてくる前に決めちゃおうと(笑)。とにかく、自立したい、そればかりでした。就職すれば経済的にも自立できますから」。
担任と相談し、進んだのは横浜の「住友電工」。いうまでもなくトップクラスの企業である。

合計7社。転職のたびに知人が増える。

「住友電工にいたのは1年くらい。住友電工を辞めて整備士として『ヤナセ』に転職します。杉並区の営業所に配属されて。実はこちらも1年ほどです。そこからCAD設計や佐川急便やリサイクル事業など、個人事業主を含め合計7社くらい転々とします。長いところでは3年、1年ちょっとのところが大半ですね(笑)」。
辞めるという話を聞くと、次々と次の話が舞い込んだ。「じゃあ、次はウチでどうだ?」と。
ただ、誘われるままに転々としていたわけでもない。
「20代半ばの頃ですね。転々としてきたし、性格的に就職より独立がいいんじゃないかなと思いはじめて。それからですね。独立を目指して佐川急便とか、営業とか、そういう給料がいい仕事をはじめ、貯金を開始しました」。
飲食で独立と思ったのは?
「変な性格ですが、社交性はあったんですね。お酒も大好きだったし。今うちの会社には、出資者の一人でもある榊原さんっていう『ローカルダイニング』の社長さんが役員で入ってくださっているんですが、彼が当時、私が住んでいた溝の口で『えんがわ』っていう店をオープンするんです。お店で頑張っている榊原さんを見ていると応援したかったし、同い年ってことも知って。『えんがわ』の常連になり、飲食にもより惹かれていったんだと思います」。
修業はゼロ。経験してきたのは、畑違いの仕事ばかり。
「2009年に武蔵新城で焼き鳥をはじめます。榊原さんからはまだ早いってアドバイスされたんですが。始めちゃいました(笑)。小さな頃から鍵っ子だったこともあって、自分で何もかもしていたんです。お料理では冷蔵庫から食材を引っ張り出して。幼少期からそういう体験をしていますから、なんでもできるって。正直、自信しかなかったですね」。
家賃10万円。24席。順調に滑りだす。
「初月は130万円、それがだんだんとアップし、200万円くらいまでいきました。7社も転々としていますが、そのたびに知人が増えていたんですね。知り合った彼、彼女らも来てくれて。ラッキーですよね。17時~24時まで。F/Lコストも何にも知らない若造が、そう儲かったわけではありませんが、なんとか食べていくことができました」。
ただ、飲食の世界は、そう簡単な世界ではない。

・・・続き

株式会社BAKA SOUL 代表取締役 山田能正氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

6つの柱のうち3つが、もう年内目標達成ベースになってきました。

コロナ禍に求人部門だけでは乗り切れないと考え、6つの柱を立ててコツコツと種を蒔きました。
それが今3つの柱は今期の目標値を上半期でほぼ見通し経ちました。
残りの3つの柱はまだ目標達成の推移に乗っていませんが、下半期に向け必達出来るように戦略を練り直します。
また、コロナ禍で社員とのコミニュケーションが取れなかったこともあり、昨年からずっと個別面談を実施してます。
毎月一人一人と何気ない会話や私がやりたいこと話してると全体的にも流れが良くなっていってます。

この1月60歳の還暦になって先を考えカウントダウン方式で、闘魂伝承しております(笑)


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「飲食の戦士たち」が大きな自信に…。

 よく、〇〇を1,000食や10,000食食べたや毎日いろんな〇〇を食べてるということで専門家になってる方も多いが、全てこちら主導で行ける。

その点、飲食企業の社長に会うとなると相手がいることなので難易度は高くなるが、飲食チェーン店の社長の生い立ちを取材して1,000社長の記事連載となるとそうはいかない。

「飲食の戦士たち」、現在948連載であと50社強で1,000連載です。

業界絞り、複数店舗運営されてるチェーン店の社長を1,000社となると、なかなかできませんから大きな自信になってます。 

今ではとても大きな無形の財産です。








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